興福寺五重塔を臨む猿沢池。
平家物語にはちょっと恐ろしい光景で登場します。
平清盛が郎党の妹尾兼康に鎧兜なし、弓矢を持たずに南都の僧をしずめるように命じましたが、そんな事情を知らない興福寺の僧は兼康の配下60人余の首を切り猿沢池のほとりに並べました。
その経緯については下記に続きます。
治承4年(1180)5月。平家打倒に向けて挙兵した源頼政。
甥の安徳天皇が践祚したことで皇位継承の望みが絶望的になった以仁王を誘い、平家追討の令旨を出させました。
以仁王は後白河法皇の息子で、異母兄弟の高倉天皇の子供が安徳天皇です。
その令旨が早くも露見し、以仁王を匿った園城寺は協力を呼びかける牒状を比叡山延暦寺と興福寺に送りました。
興福寺でも反平家が高まっていたため呼応し、以仁王をお迎えすることにしました。
しかし南都へ赴く途中、宇治で頼政と以仁王は討たれてしまいました。
その後、園城寺と興福寺は朝敵と判断され園城寺はその年の12月11日(日にちは複数説があります)に清盛の五男・平重衡軍に攻められ焼失しました。
園城寺についてはこちら↓
園城寺町 | 弁慶が奪った鐘の他、以仁王を匿い平重衡軍が攻め込んだ 園城寺(三井寺) >> |
平重衡軍 以仁王 筒井浄明 武蔵坊弁慶 源頼義 |
興福寺とは当初、争う意志はなく清盛は郎党の妹尾兼康を大和の検非違使に任命し、南都の僧達が暴れても手を出さずにしずめるように命じました。
興福寺では平家が攻めてきたと思い、兼康の配下500騎の内、60人余を捉え首を切り、その首は猿沢池のほとりにかけ並べたと平家物語覚一本に描かれます。
これに激怒した清盛は五男の重衡を大将に、甥の通盛を副将として南都に向かわせ東大寺の大仏までもが焼けてしまう「南都焼討」へと発展してしまいました。
今はコイやカメ、小さなエビなどが泳ぐ猿沢池。
夏の奈良の風物詩「なら燈花会」では池の周りロウソクが並べられライトアップされた五重塔と共に美しい夜を演出しています。
史実かどうかは別として様々な伝説に彩られる猿沢池。
采女:うねめ:のお話も。
奈良散策の一環におすすめです。
夕陽に照らされた猿沢池。
※興福寺の南側
②JR「奈良」駅から東へ徒歩17分