久寿2年の源義賢と源義平の叔父・甥で争った大蔵合戦では斎藤実盛は源義賢軍でした。
義賢が討ち取られたため義賢の子・駒王丸(後の木曽義仲)は命を狙われましたがまだ幼く、駒王丸の乳母夫がいる木曽へ実盛が逃しました。
保元元年(1156)の保元の乱や平治元年(1159)の平治の乱では実盛は源義朝軍で、平家と敵対しましたがその後は平家に仕えるようになりました。
平家物語によると治承4年(1180)10月の富士川合戦では平維盛に実盛ほどの強弓を引く者はどれくらいいるか尋ねられたときに、実盛より強い者はいくらでもおり、親や子が討たれてもその屍を乗り越え戦うなど坂東武者の凄まじさを語って平家が震えおののいた様子が書かれています。
寿永2年(1183)6月1日の篠原合戦では70歳を越えており、年齢を侮られないために白髪を染め戦いに挑んだことで知られる武将です。
住宅の間に実盛塚へと続く道があります。
出入口付近に設置されています。
この一帯は源平争乱の舞台「篠原古戦場」です。
寿永2年5月(1183年)、倶利伽羅の合戦の大勝の余勢をかって攻めたてる木曽義仲(源義仲)軍を相手に、敗走する平家軍の中で、たた一騎、踏みとどまって戦ったのが斉籐別当実盛でした。
実盛は木曽義仲幼少時代の命の恩人でしたが、これを秘し、73歳という老齢の身を侮られぬよう白髪を黒く染め、名乗りもあげず戦いました。
しかし、奮戦むなしく手塚太郎光盛に討ち取られ、劇的な最期を遂げてしまいます。
そのなきがらを葬ったと伝えられているのが、ここ「実盛塚」です。
伝説では、応永21年(1414年)に時宗14世遊行上人が篠原の地を巡錫中、実盛の亡霊があらわれ救いを求めたので、上人が回向したらたちまち成仏したといわれ、世阿弥作の謡曲「実盛」でひろく世に知れ渡っています。
ここ「実盛塚」の周辺には、討ち取られた実盛の首を洗ったとされる「首洗池」(ここから東方向に約1.4km、加賀市手塚町)や、実盛が髪を染める際に用いた鏡を安置したと伝えられる「鏡の池」(ここから西方向に約4.5km、加賀市深田町)など、実盛の伝説にまつわる場所があります。
また、隣の小松市には、実盛の死を深くあわれんだ義仲が、実盛着用の兜や鎧などを奉納し、その供養を依頼した「多太神社」があります。
その奥に立派な松が。(2010年5月3日撮影)
樹齢何年くらいか、植樹されたものなのかなどは書かれていませんが、垣根があり手入れされている様子です。
■篠原古戦場 史趾 実盛塚
寿永2年6月源氏の若武者 手塚の太郎光盛と相博って劇的な最期を遂げた斎藤別当実盛を葬った墓所である。
康應2年(1390)時宗総本山(相模藤沢の清浄光寺)14世 遊行上人太空が此の地へ来錫の節、実盛の亡霊が現れ上人の回向を受けて妄執をはらし上人は実盛に「真阿」という法名を與えられたと伝えている。
以来、歴代の遊行上人が加賀路を巡錫:じゅんしゃく:の節には必ず立ち寄って此の塚に回向された。
謡曲「実盛」はこれらの伝説に基づいて作られたものである。
北海が盛りたる砂にあらずして
木曽の冠者がきづきつる塚
片山津温泉が近くにあり、観光や温泉も兼ねていかがでしょうか。
中谷宇吉郎雪の科学館バス停まで
①海まわり線→約1時間15分乗車
②小松空港線→約15分乗車
↓加賀周遊バスの時刻表、ルートなど↓
http://www.kaga-canbus.jp/
ガイドさんが乗車されていてツアー感覚で楽しめました。