幼名は六代:ろくだい:、平清盛の曾孫で平家最後の嫡流となる平高清ゆかりの松跡です。
ここより南東方向に現在も千本松原通りなどがあり、平家物語によると六代が斬られそうになった場所が千本松原と記されています。
白河法皇に気に入られ、平家が栄えるきっかけを作った平正盛から数えて六代目となることから六代と呼ばれています。
【簡単な系図】
維衡(伊勢守となる)
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正度
↓
正衡
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正盛 ※一代目とする
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忠盛 ※二代目
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清盛 ※三代目
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重盛 ※四代目
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維盛 ※五代目
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六代(高清)
平家物語によると平家都落ちの際に父・維盛は妻子を京に残し後に入水、壇ノ浦合戦後は高清たちは菖蒲谷(京の大覚寺近く)でひっそりと隠れて暮らしていました。
そのころ北条時政たちが、源頼朝の命により平家の子孫を探し出すため褒賞を出し情報を集めては捕らえ、幼い子供たちも惨い最期を迎えました。
そうこうしている間に六代も密告により見つかってしまいました。
母や乳母のはかりしれない嘆き悲しみの傍ら、12歳となっていた六代は運命を受け入れていたのかもしれない様子が平家物語から垣間見ることができます。
乳母が噂に聞いたとある聖に、六代を弟子にして助命をお願いしたところ、その聖は源頼朝に嘆願するため、20日間の猶予が欲しいと言い残し旅立ちました。
その聖とは昔、源頼朝に挙兵を促した説がある文覚:もんがく:です。
20日経っても何の音沙汰もなく、六代を助けたいと思った北条時政もこれ以上は待てずに六代を連れて鎌倉へ向かっている途中、千本松原の辺りで六代を斬ることにしました。
まさに斬られようとした時に文覚が間に合い、助かった六代は後に出家して妙覚と名乗るようになりました。
平家物語によると30歳で処刑されたとなっていますが、複数の説があり没年がはっきりしません。
六代は、平清盛を三代とし、重盛、惟盛、六代と続く平家の頭領となる血を受け継ぐ御曹司である。
父親の幼名が五代であったことと符合する。
元服前に壇ノ浦で平家が滅亡(文治元1185年)すると捜し出され、鎌倉に下る途中の千本松原において危うく斬首されるところを文覚上人の力により助けられる。
平家の末路を語る上で最も人々の心に残る場面の一つである。
その後、出家し妙覚と名乗り、文覚上人の謀反に連座し、誅せられ、その首を供の者が思い出深い千本の松の根元に葬ったと伝えられる。
江戸幕府の命を受けて、道中奉公井上美濃守藤原利恭らが文化3年(1806)に完成した「東海道分間延絵図:ぶんけんのべえず:にも、千本松原の中にある一際大きな松が描かれており、六代御前旧林の文字がある。
民間では、学識の深い俳人・秋里蘺島が寛政9年(1797)に板行し好評を博した「東海道名所図会」には、文覚、六代御前を助けるの絵と共に他より枚数を多くとって掲載されている。
平家物語の名場面として知られ、東海道の旅人達に親しまれた巨木の六代松であったが、枯れてしまい、これを惜しんだ人々により天保12年(1842)碑が建てられた。
撰文は沼津藩典医駒留正隆により、平家物語を根拠としている。
沼津市教育委員会
松がうまく移植できなかったようなことが献木と書かれた碑の側面に書かれています。
(下記写真左側)
六代松ノ代松ヲ残スタメ昭和の初期ヨリ愛●山ヨリ移植スルコト五、六回ニ及ビ成木スルコトガ出キズタメニ心ミニ移植現在成木ニ至ル永遠ノ成木ヲ祈ル
(下記写真右側)
昭和48年実生古根村石蔵旧墓地
昭和53年3月10日現地ニ移植ス
無事育っているようです。
六代松の碑の近くには道標もあります。
墓地に隣接した場所で、入口すぐ左手に碑があります。
駅からは離れていますが、平家物語を語る上で外せない場所かと思います。
また、さらに北西へ徒歩10分ほどの場所には六代の助命に奔走した文覚が開基の金剛寺があるので立ち寄ってみました。
現地に由緒などが見付からなかったので下記にリンクを貼っておきます。
金剛寺の公式Facebookページ→https://www.facebook.com/kongotemple
沼津市ホームページ→https://www.city.numazu.shizuoka.jp/shisei/profile/bunkazai/toukai/kongoji.htm
境内の神社
今回は時間がなかったので境内のみでしたがいつか再びお参りできる機会があってお寺の方がいらっしゃったらお話を伺えればと思います。
②JR沼津駅から富士急シティバス乗車、東間門バス停から徒歩5分
■六代松の碑
↓北西へ徒歩約10分
■金剛寺