小矢部市の北部、石川県との県境にほど近い場所に俊寛塚が建てられています。
京の鹿ヶ谷で平家打倒を企てたものの、密告により複数名が捕らえられた「鹿ヶ谷事件」
その密議場所の山荘を提供したのが僧の俊寛で、藤原成経、平康頼と共に3人は薩摩の硫黄島に流されたと平家物語にみえますが、実はこの小矢部市に流されたという伝説があります。
↓これは後述する俊寛杉が聳える瀧之社の案内板です。
このページでは小矢部市役所で購入できる「ふるさとガイドおやべ」や役所や観光協会でいただいた資料を基に探訪しまとめました。
北から南下しながら紹介します。
①俊寛塚
②俊寛の清水
③比丘尼塚、姫塚 俊寛の妻と娘の塚※写真なし
④出合橋 俊寛が会いに来た妻・娘と出会った橋
⑤瀧之社 俊寛が挿した杉箸が杉に成長
⑥素盞嗚社 俊寛が逆さに植えた2本の杉
バーベキューなどができる施設・恵林館の東側に電電公社が出資し、整備された庭があり俊寛伝説に基づいて塚が建てられたそうです。
これがその案内板。
しかしこの施設は2020年ころに閉鎖となり現在は草木に覆われ全く近づけないどころか入口の道さえ分からない状態になっています。
(この辺りは立入禁止になっていますが許可をいただき撮影しました)
地元の方の話によると俊寛塚を示す案内板付近から見える木の根元に塚があるそうです。
示す方向に見えるこの木に注目。
この根元辺りにある俊寛塚。望遠で映らないかと試みましたがどう考えても無理でした。
近くまででも行けて良かったです。
それと案内板を反対方向から見ると薄くなっています。なんで??
八幡宮に続く道の傍らに清水を見ることができます。案内板はありませんがこれが俊寛の清水と呼ばれており、現在は3世帯が住む集落で廃校になった建物もあるそうです。
どれが俊寛の清水か不明です(全てがそれかもしれません)ので写真複数載せておきます。
下記写真の左(西)側が俊寛の清水と云われています。
俊寛塚と俊寛の清水のほぼ中間にあるのが比丘尼塚と姫塚で、比丘尼塚は俊寛の妻、姫塚は俊寛の娘の塚だそうですが、俊寛塚と同じく全くもって近づけず、存在すら忘れられているようです。
地元の方によると20年ほど前までは集落の田んぼで、田の中に塚がぽつんと有り実際に見れる状態だったそうです。
ふるさとガイドおやべには比丘尼塚の当時の写真が載っています。
地図のマーカーの場所ではなく、この付近一帯のどこかという意味で載せています。
流刑になった俊寛を訪ねてきた妻と娘と再会したという出合橋。
反射板。橋はかなり苔むしています。
ここの地名が「久利須:くりす:」、久利須川
水量はそれほど多くありませんが、平安時代末期はどうだったのでしょう。
橋がある場所は十字路になっています。
俊寛と妻子は涙涙の再会だったのでしょう。
現代でも山深く少し寂しく感じる場所、平安末期に妻子がここまでよくやって来ることができたのかたと、道中の苦労が偲ばれます。
ここの見どころは3つ。
俊寛杉
平康頼が赦免を祈願した観音(観音堂)
弁慶岩
まずは俊寛杉。
俊寛が挿した杉箸が成長した杉だそうで、宮島の大杉と呼ばれています。
こちらは観音堂。
平安末期は蟻の熊野詣と言われるほど、貴族も庶民も皆、紀伊の熊野に詣でており、平康頼も熊野を信仰していました。
ここが熊野の那智に似ていることから"小那智":こなち:と呼び、平康頼が赦免を祈願した観音様と伝わります。
弁慶岩。
俊寛の時代から8年ほど経って、平家を滅ぼした後に源頼朝から追われる身になった義経一行が通った際、岩に弁慶の足跡が残った(残した?)という話があります。
配置。杉の奥が滝です。
見事な滝。
俊寛が逆さに植えた(どうやって逆さに??)杉と云われていて、この2本だけ枝が根のように広がっていることが逆さ杉の由来だそうです。
これは圧巻!!
観光協会でいただいた資料によると前述の瀧之社の大杉の方が樹高も幹回りも大きいのですが、実際に見た体感ではこの逆さ杉の方が大きく感じました。
隣の木の枝と比較。
社もありますが、つい逆さ杉ばかりに目がいってしまいます。
現地に俊寛に関する説明はありませんでした。
ここの神社名は「すさのおしゃ」
俊寛の逆さ杉までなら石動駅のレンタサイクルで来れる距離かと思います。
俊寛伝説は各地に伝わり、非常に興味深いです。
最初に紹介した俊寛塚付近などはクマやイノシシが出ると伺いましたが、富山県では地域のよっては住宅地付近でもクマ出没注意の看板を見かけます。
もし、探訪される際は十分お気をつけください。