多くの人が行き交った逢坂の関。
はっきりした場所は不明ですが、碑が建てられています。
住所
滋賀県大津市大谷町
交通
京阪「大谷」駅徒歩3分
探訪について
自由
目安時間
15分~
お気に入り度
★★★☆☆
探訪日
2015/05/04
備考
–
解説板より
逢坂の関の初出は、平安京建都の翌年延暦14年(795)に逢坂の関の前身が廃止されたという『日本紀略』の記述です。
その後、逢坂の関は京の都を守る重要な関所である三関(鈴鹿関・不破関・逢坂関)のひとつとして、弘仁元年(810)以降、重要な役割を果たしていましたが、平安後期からは徐々に形骸化されその形を失ってきました。
逢坂の関の初出は、平安京建都の翌年延暦14年(795)に逢坂の関の前身が廃止されたという『日本紀略』の記述です。
その後、逢坂の関は京の都を守る重要な関所である三関(鈴鹿関・不破関・逢坂関)のひとつとして、弘仁元年(810)以降、重要な役割を果たしていましたが、平安後期からは徐々に形骸化されその形を失ってきました。
逢坂の関の位置については現在の関蝉丸神社(上社)から関寺(現在の長安寺のある辺り)の周辺にあったともいわれますが、いまだにその位置は明らかになっていません。
交通の要衝
壇ノ浦合戦で捕らえられた平宗盛が源義経に連れられて鎌倉へ送られる時、逢坂山で関の清水をみて涙ながらに詠んだ歌が平家物語覚一本「腰越」の章に記載されています。
“都をば けふをかぎりのせきみづに またあふさかの かげやうつさむ”
大まかな意味 → 本日が最後であろうと都を出発したが関の清水にもう一度身を映すことが出来るであろうか
これは関を越える前か、越えてから詠んだかで心情も変わってくるのでは?と友人と話しをしながら見て周りました。
逢坂の関にはいくつか歌碑がありましたが、平宗盛の歌はありませんでした…
また、一ノ谷合戦で生捕りにされ鎌倉へ送られる平重衡も逢坂山を越えたという記述が平家物語覚一本「海道下」の章にみられます。
それぞれどのような思いでこの逢坂の関を通ったのか、胸中を推し量りつつ、この地を歩いてみるのもいいかもしれません。
トイレの壁にも説明がありますので是非現地でご確認くださいね。