
源頼朝と不和になり、奥州を目指す義経一行。
義経ではないかと疑いを掛けられた時、弁慶のとっさの機転で疑念を晴らした一場面です。
※このページの写真は全て2009年5月2日撮影で、JR伏木駅から東へ徒歩5分の小矢部川のほとりに設置されていました。
現在は下記のJR伏木駅西側に移設されているそうです。
移設については北陸・信越観光ナビサイトに掲載されています
https://www.hokurikushinkansen-navi.jp/pc/news/article.php?id=NEWS0000010676
室町時代の軍記物語「義経記」の中に「如意の渡」にて”義経を弁慶打奉るの事”という挿話がありますが、この「如意の渡」はかつてこのあたりにあったと伝えされています。
文治3年(1187)奥州へ落ちる義経一行が如意の渡から船で六渡寺へすすもうとしましたが渡守の平権守が義経をさして判官殿(義経のこと)ではないかと怪しみました。
もし義経であることが見破られ頼朝に通報されたら一大事と考えた弁慶は”あれは加賀白山よりつれてきた御坊で判官殿とおもわれるのは心外だ”と言ってとっさに疑念をはらすため、扇で義経をさんざん打ちのめしました。
このようなやり取りがあって、一行はめでたく如意の渡を渡りました。
この話は、扇が金剛杖になったり場所も安宅の関になるなど、だんだん変えられて、のちに謡曲「安宅」や歌舞伎「勧進帳」が創作されました。
高岡市観光協会
主従関係にある2人が主をさんざん打ちのめすとは思えないということでこの場は見逃され無事乗り切れたというお話です。
義経とばれないように山伏に変装。この情けない顔も演技?!
像の右下にも上記と同じような説明が書かれています。
この写真の数か月後、渡船は廃止となったそうです。
当時は義経と同じことをするのが嫌で船に乗らなかったのですが、今思えば乗っておけば良かったと後悔しています。
像の後ろに見えるこの道路が開通したために渡船が廃止なったとか。
便利になった反面寂しい思いもあります。
移設された像を見にいけたらまたこのページに追記します。