街中を歩いていると突然現れる大仏様。
ここは平清盛の出家の寺であり、境内の「平相国廟:へいしょうこくびょう」は平清盛の墓である可能性が高いとされています。
平清盛の墓所とされる「平相国廟:へいしょうこくびょう」
※相国は太政大臣の唐名
清盛の最期は平家物語によると高熱に苦しみ浸かった水が一瞬でお湯と化してしまったとか。
ちなみに終焉の地は京都駅から東に約1km弱です。
下京区東之町 | 平清盛終焉の地であり、高倉天皇誕生の地 平清盛終焉推定地、高倉天皇誕生の地 >> |
平清盛 高倉天皇 平盛国 |
荼毘に付した清盛の遺骨は円実法眼が頸にかけ福原へ運び葬ったとされています。
(吾妻鏡では播磨国山田の法花堂に納めたとされていますが書籍『ゆかりの地で出合う歴史と伝説 平清盛と神戸』(神戸新聞総合出版センター)によると法花堂(法華堂)は所在不明)
様々な説がある清盛の墓の場所ですが、能福寺では毎年2月4日に命日法要が行われています。
中央が平清盛、左が忠快(ちゅうかい。清盛の甥で能福寺の住職)、右の小さい塔は清盛の遺骨を頸にかけて京から運んだ僧・円実法眼:えんじつほうげん:です。
円実法眼も能福寺の住職で、清盛の剃髪出家の師です。
平安の末期(養和元年、西暦1181)平清盛公の薨去によって能福寺の寺領内にあった太平山八棟寺に公の墓所平相国廟が造立されたと云う。
しかし平家滅亡と同時にことごとく破壊され、能福寺を灰燼に帰した。
以後廟は再建されることなくその存在すら忘れ去られていた。
百余年後の弘安9年(1268)2月、平家一門の栄枯盛衰を哀れんだ時の執権北条貞時公はその近くに一基の石塔を建て、清盛公の霊を弔った、と能福寺の古文書に見える。
現在に伝わる清盛塚十三重石塔(県指定重文)がそれである。
今、諸々の古記録文献には「京、愛宕山にて火葬荼毘に付し圓實法眼 全骨を福原に持ち来り、経ヶ島に納め…(又は)「大和田の法華堂に納め…」(又は)「能福寺の東北に埋骨…」云々とあるところから、遷都をも決断したほど兵庫の地を愛した清盛公の遺言に依り全骨を福原に持ち帰った事が史実ならば、歴史上、真の墓はかつて平安末期、能福寺々領内にあった平相国廟と考えられる。
奇しくも本年清盛公の八百回大遠忌を迎えるにあたり、平家物語類書にも有名な平相国廟を建立復興し、併せて圓實法眼 宝篋印塔、忠快法印塔を合祀した。
現在わが国最大の国際貿易港として繁栄せる神戸港湾の基礎を造った根元としての平清盛公に対して今、報恩謝徳の意を込めて、ここに安らかにお眠りになる廟を造り奉る。
願わくば日本の国土と民衆を兵庫県民を神戸市民を守護したまえ
右 圓實法眼宝篋印塔 鎌倉時代
能福寺住職 名門 徳大寺家出身 清盛公剃髪出家の師匠
左 忠快法印塔(九重塔)鎌倉時代
清盛公の弟・教盛の長子、圓實法眼の弟子にして当山住職。廟前にて有名な追善管絃法要を修し天台密教の学僧にして比叡山に小川流一派の灌室を興す。
廟の隣の鐘楼は阪神淡路大震災で倒壊してしまいましたが、再建され2018年11月23日に落慶法要が行われました。
長い間 鐘楼は台のみでした。
工事が始まったころ。
また、能福寺は剃髪出家した寺でもあります。
仁安3年(1168)2月だと平清盛51歳(数え年)となります。
門を入ってすぐ右手にも注目。
平家源氏将兵 戦歿者五輪供養塔
境内出土 鎌倉時代
清盛の甥・忠快が住職だった時代もある能福寺。
現在はこの方が住職です。
とても親しみやすく和太鼓も演奏できる御住職です。
2018年11月23日に晋山式及び鐘楼落慶法要が行われました。
能福寺 |
【レポート】能福寺 鐘楼落慶法要、晋山式 >> |
100人以上が参列し、盛大に行われました |
先日アップされたドローン撮影の大仏様。
なんと住職自ら撮影、編集されたそうです!!プロ?!
個人的には大仏さまの背中と街並みの映像が好き。
また、YouTube動画の法話大会『法話巡礼33』の実行委員長もされています。
宗派も関係なく、好きな時間に法話にふれることができます。
法話巡礼33サイト → https://www.houwagrandprix.com/
多数の法話動画が掲載されていていつでも自由に閲覧可能です。
センスマの動画にも。
近くの樽屋五兵衛さんの餅つきにも参加されることも。
納経所と書かれた小さな建物。
この写真に写っているのは前御住職と平成の世に甦って間もないころの清盛隊。
納経所は京都から移築された「月輪影殿」のすぐ近くです。
また、清盛隊の2周年は能福寺で行われました。
その直前に前御住職がお亡くなりになりましたが、開催していただいたことに感謝。
かなり近くで拝めます。
兵庫大佛尊像
明治初年、大政官布告により神佛分離令が発せられ排佛毀釈により佛教界は壊滅状態だった。
この時兵庫の豪商 南條荘兵衛の一大発願により兵庫の民衆はもとより佛教界全宗派を挙げて巨大な盧舎那大佛が建立された。
以来、奈良、鎌倉と共に日本三大佛に数えられる。
その後この兵庫一帯は大いに栄えて神戸一の繁華街を誇り、香の絶ゆる間なく内外の参詣者で賑わった。
映画解説者の淀川長治氏は、この境内の活動写真を愛され、漫才の故砂川捨丸師匠、松竹新喜劇の故渋谷天外師匠の初舞台もこの境内の掛小屋だと、自ら語っておられました。
今次大戦の敗色濃い昭和19年5月金属回収令により悲しみに沈む多数の市民に見送られ出征された。
平成3年5月多くの市民の強い要望により、市内の有力企業多数の協賛を得て実に47年ぶりに再建された真の「民衆立」の信仰大佛である。
地上よりの総高18米・重さ(蓮台共)60トン
天台宗 能福寺護国密寺
・開基
傳教大師最澄上人 廷暦24年(西暦805年)
・本尊
傳教大師御作 薬師如来立像
・御前立
彌陀三尊佛(藤原時代後期の優作)
十一面観世音菩薩立像(弘仁年間の秀作)
国指定重要文化財
今から千年以上も昔、延暦23年(西暦804年)桓武天皇の勅命を受けて支那に留学せられた傳教大師は、その帰途、兵庫和田岬に上陸、庶民大いに大師を歓待し、堂を建立し教化を請うた。
大師は御自作の薬師如来立像を御堂に安置して国の安泰、庶民の幸福を祈願して自ら能福護国密寺と称された。
即ち傳教大師の我が国最初の教化霊場である。
平清盛公福原遷都の時(治承4年、西暦1180年)平家一門の帰依あり、小川忠快法印(平清盛公の甥)七堂伽藍を完備して兵庫随一の勢力を誇り福原京五山の第一に居し依って通称「福原寺」と称した。
寺の壮大な外観から「八棟寺」とも称された。
平家滅亡後、暦応4年(西暦1341年)震災により全焼、慶長4年(西暦1599年)明智光秀の臣、長盛法印 堂宇を再建した。
本朝編年集に曰く
「仁安3年(西暦1168年)11月平清盛公、能福寺ニ於テ剃髪入道ス。
養和元年(西暦1181年)2月4日京西八条ニ於テ薨去。歳64。
翌日火葬トシ、圓實法眼 全骨ヲ福原ニ持チ来タリ、能福寺ノ東北ニ埋ル。」
これは清盛公の遺言によるものである。
圓實法眼は当寺の住職にして徳大寺家祖 左大臣 實能公を父とする出處正しき人物である。
2012年は清盛茶屋の会場としてお接隊の皆さんがお芝居をされていました。
安徳天皇演じるは現住職の娘さん。
観音様の縁日は毎月18日。
能福寺の観音様は永代供養の場にあり、管理や防犯面からその年の最初の縁日である1月18日のみ拝観出来るようにされているということでした。
偶然にも平清盛の生誕日。
■初観音会2020年の内容
11時~12時
・観音様の縁日の説明
・読経
・法話
約20~30人ほどが集まり、12時以降も数名がお参りに来られていました。
仏様の教えも時代により変わりこの日、皆で唱えた観音経の中にもあまり口に出したくないことも書かれているため、終わってから説明されているそうです。
能福寺の観音様は元々は和田神社にあり、神仏習合から神仏分離の時に能福寺へ受け渡されました。
神仏分離では酷いところでは焼いたり破壊されたりもありましたが、能福寺と和田神社は仲がよく平穏に観音様をお迎えされたと先代の御住職から語り継がれている様子です。
御朱印、能福寺記は境内奥の本坊で受けられます。
能福寺記には平清盛の戒名が各寺院で統一されていないことや、忠快の像(神戸空襲で焼失)の写真なども掲載されています。
御朱印にはこの浮線蝶紋が入ります。
また、平清盛ゆかりの真光寺や来迎寺も近くです。
平家ゆかりの地を一度に堪能できます!
YouTube「兵庫大仏能福寺」チャンネル
https://www.youtube.com/channel/UCB0DTPYa7nMA0c9jeGtdY3w
神戸市営地下鉄にも案内が。