元久2(1205)年6月22日、北条氏と戦い愛甲季隆:あいこうすえたか:の矢で討たれた畠山重忠一族を祀る「むっつづか」
薬王寺周辺に6つの土を盛った塚があります。
源頼朝の信頼が篤かった重忠ですが、頼朝の死から約6年後に鎌倉幕府の執権を握った北条氏の策略により最期を迎えました。
六ツ塚
おおよそ乱世に学問道義は衰えるが畠山重忠公は智仁勇の三徳を兼ね備えた武将で今なお親み慕われている。
その時鎌倉北条時政から急ぎ鎌倉に出頭せよの命に接した公は菅谷の館(現・埼玉県比企郡)を6月19日発し、鶴ヶ峰にさしかかるや雲霞の如き数万騎は、ここ霊堂の前方帷子川を越えた彼方の台地(万騎が原)方面から突然攻め寄った。
公は策にかかったとは知ったが武士として決戦を覚悟した。
この時、公の重臣らは一度菅谷の館に引き返し軍を整えて鎌倉方を待たるるよう進言したが公は毅然として、しかすれば我に陰謀があったと無実が事実となり永久に汚名を着ると諭した上、牛の刻(正午)より数時間にわたる激戦のはて愛甲三郎季隆の矢に当り遂に一族郎党134騎とともに玉砕した。
時は元久2年6月22日(1205年。今より768年前)公は42才。この地に主従一同と六ヶ所に葬り代々伝えて六ッ塚と言う。
旭区役所
旭区観光協会
北条時政の娘婿・平賀朝雅と畠山重忠の息子・畠山重保が口論になったことが原因とされていますが、菅谷館(埼玉県比企郡嵐山町)で購入した「嵐山史跡の博物館ガイドブック1菅谷館の主 畠山重忠」によると、武蔵で畠山一族の勢力が強いため排除されたであろうとされています。
原因ははっきりしない部分もありますが、菅谷館から鎌倉に向った重忠一行は134騎、大軍の北条氏に対抗できるような数ではなく敗れてしまいました。
ちなみに北条時政にとって畠山重忠は娘婿で重保は北条時政の孫とされています(重忠の妻はほかに足立遠元の娘も)
『六ッ塚』の通り、境内には塚が複数
このように土が盛られ板塔婆には『畠山重忠一族郎党之精霊供養塔』の文字が読み取れます。
塚は薬王寺境内には3つあり、道を挟んだ隣の敷地(ここも境内??)に3つあります。
大まかな図にしました。緑の部分が塚。
隣の敷地にも同じように土が盛られています。
上記写真の左側に写る碑には霊堂について書かれています。
霊堂建立の由来
武州鶴ヶ峰ハ智仁勇名称秩父庄司畠山重忠公及 重保重秀一族郎従百二十有名ガ北條氏ノ奸計ニヨリ寃死セル
古戦場ナリ時に元久二年六月ニ十ニ日
六ッ塚ハソノ自刃セル一族ヲ埋メシ塚ナリ
霊堂ハ重忠公一族を発祀シ広ク公ノ精神ヲ顕彰シ史蹟保存為ニ陸軍大佐栗原勇殿発願ニヨリ十方各位ノ協力ヲ得テ創建セラレタルモノナリ
鶴大山重藤寺住職 阿部眞龍
建碑施主 葛籠貫藤吉
6つの塚全てに手を合わせてきました。
6月22日は命日に合わせて慰霊祭が行われているそうです。いつか当日にお参りしたいと思います。