壇ノ浦合戦で生捕りにされた平宗盛・清宗父子が処刑され、胴を埋めたと伝わる場所です。
命日は元暦2(1185)年6月21日。
【命日法要『宗盛を偲ぶ集い』レポート】
※2022年は5月22日予定
■2021年 → https://genpei.sakura.ne.jp/genpei-shiseki/munemoriwo-shinobutsudoi837/
■2019年 → https://genpei.sakura.ne.jp/genpei-shiseki/munemoriwo-shinobutsudoi835/
■2017年 → https://genpei.sakura.ne.jp/genpei-shiseki/munemoriwo-shinobu833/
野洲駅からバスに揺られて約20分。「道の駅 竜王かがみの里」バス停で降りて歩道橋を渡り反対側の道路へ。
義経元服の地の幟が出迎えてくれますが、今は義経は素通りします。
※道の駅は腹ごしらえ、お土産購入など色々便利です。
バスで来た道を少し戻ります。
※右側の青いアイコンがバス停、赤いラインが宗盛胴塚への道のり、徒歩約10分です。緑のラインは後述の蛙不鳴池と首洗い池への道です。
道路沿いに西へまっすぐ、右手にコンビニを見ながら更に進むと下記のような看板が立っています。
この細い道の奥に宗盛胴塚があります。2017年5月に行くと綺麗に草刈されていました。
見えてきました!入口からここまで徒歩約3分です。
平家が滅亡した地は壇ノ浦ではなくここ野洲市である。
平家最後の最高責任者平宗盛は源義経に追われて1183年7月一門を引きつれて都落ちした。西海を漂うこと2年、1185年3月24日壇ノ浦合戦でついに敗れ、平家一門はことごとく入水戦死した。しかし一門のうち建礼門院、宗盛父子、清盛の妻の兄平時忠だけは捕えられた。宗盛父子は源義経に連れられ鎌倉近くまでくだったが、兄の頼朝に憎まれ追いかえされ、再び京都へ向かった。
途中、京都まであと1日程のここ篠原の地で義経は都に首を持ち帰るため平家最後の総大将宗盛とその子清宗を斬った。そして義経のせめてもの配慮で父子の胴は1つの穴に埋められ塚が建てられたのである。
父清盛が全盛の時、この地のために堀った祇王井川がいまもなお広い耕地を潤し続け、感謝する人々の中に眠ることは宗盛父子にとっても野洲市が日本中のどこよりもやすらぐ安住の地であろう。
現在ではかなり狭くなったが、昔、塚の前に広い池がありこの池で父子の首を洗ったといわれ「首洗い池」、またあまりにも哀れで蛙が鳴かなくなったことから「蛙鳴かずの池」とも呼ばれている。
解説によると義経のせめてもの配慮により宗盛・清宗親子は一緒に葬られたそうです。
壇ノ浦合戦の際、海に落された宗盛・清宗親子はお互いに相手が沈んだら自分も沈もうと思っていたほど仲が良く、それで沈めずに生捕りにされ、処刑される時も互いに心配し合っていたと平家物語に書かれていいます。
義経もその気持ちは分かったのですね。
お供え物の数が凄いです!!
神戸・清盛隊の宗盛さんの写真やマグカップも置かれています。(上の写真とは別の日の写真です)
ここよりすぐ西側にある池の説明も建てられています。
西方に見える池を蛙不鳴池と云い、この池は、元暦2年(1185)源義経が平家の大将、平宗盛とその子清宗を処刑した時その首を洗った「首洗い池」と続きで、以後、蛙が鳴かなくなったとの言い伝えから、蛙鳴かずの池と呼ばれている。
別名、帰らずの池とも呼ばれ、その池の神が日に3度池に影を映されたのに、お帰りを見た事がないとの言われからである。
昔は横一町半(約165m)、長さ二町(約220m)あった。首洗い池は、蛙不鳴池の東岸につながってほぼ円形をしていた。
最近までその形を留めていた。
大篠原郷土史会
蛙不鳴池と首洗い池へ行くには、地図の緑ラインです。平家終焉の地の入口まで戻り、道路沿いに西へ約3分進むと「大篠原北」の交差点が見えてきます。
交差点附近の池が蛙不鳴池と首洗い池です。大きいです。
宗盛胴塚はひっそりしていますが、道の駅周辺は源義経元服の地として、ゆかりの地が残っています。(義経元服の地は熱田神宮の説もあります)
お参り後は源氏の動向を探るのも良いかもしれませんね。
「道の駅 竜王かがみの里」バス停下車、西へ徒歩約10分
また、道の駅すぐ西側には獣害対策の柵が設けられています。イノシシが出没する可能性がありますので、十分お気を付けください。