文覚上人:もんがくしょうにん:は源頼朝に挙兵を促したり、壇ノ浦合戦後は六代(平重盛の孫)の助命に奔走した人物です。
文覚上人は北面の武士だったころ、遠藤盛遠:えんどうもりとお:という名でした。
同じ北面の武士の渡辺渡の妻・袈裟に思いを寄せ言い寄り、袈裟は夫を亡き者にする策を授けました。
しかしそれは断り切れなくなった袈裟が、夫の身代わりとなる策でした。
そうとは知らず遠藤盛遠は渡辺渡になりすました袈裟の首を取ってしまいました。
月明かりで見てみるとそれは恋焦がれていた袈裟の首であることに驚愕した遠藤盛遠。
これがきっかけで出家し、文覚上人となったとされています。
水不足に苦しむ村人のために文覚が一緒に作った池。
周囲の桜がとても綺麗でした。
■田畑を潤し人の心をなごませる文覚池
京都高雄 神護寺中興の祖。
あるいは袈裟御前との悲恋の主人公として知られている文覚上人が、寺領見廻りのため当地を訪れたある夏の日のこと、水不足に悩んでいる村人たちに
「ため池を造りなさい。村はずれにいい場所がある」
と教え、早速工事にとりかかった。
文覚上人の日夜をわかたぬ陣頭指揮と、村人の奮闘でたちまち大きな池が完成したのがこの池で、喜んだ村人たちは、池を文覚池と名付けました。
説明の横に立つ碑
池の南側は文覚ふれあい公園となっています。
桜も何種類かあるようでした。
池を作った文覚に感謝して建てられたのが文覚堂です。
■通り堂(文覚堂)碑
通り堂は、用水路の上に建ち、水路に架かる石橋と一体の堂で、室橋の地名の由来となったとも言われています。
神護寺(京都市右京区)の復興に尽力した僧・文覚(1139~1203)がこの場所から水路の流れを検分したという伝承から、文覚堂の名前でも親しまれています。
現在の建物は、平成20年(2008)に再建されたものです。
明治12年(1879)の室橋村の{村誌}によると文覚上人が治承年中(1177~81)に当地を訪れた際、用水不足に苦しむ人々を見て深く憐れみ、村の西方の適地を指し示して用水池の築造を説き、村中が一致協力して築造に取りかかり、用水池が完成しました。
この池は文覚池と呼ばれ、村民は文覚上人の恩を忘れないため、石橋の上にお堂を建立し、文覚地蔵と称する地蔵を祀って五月には初苗を供えたと伝えられています。
この地蔵は現在は通り堂の西に位置する観音堂(福安寺)の境内に安置されています。
↓近くに参道があります。
水車のある風景
柱にも解説が。
■源起之銘橋
此堂、治承元年(1177年)5月文覚上人新庄堰水開創サレシ際 見水之記念建築物ニシテ今ヲ去ルコト 百 拾年ヲ経過セリ此間風残雨雪ニ逢イテ度々修履ヲ加シモ現今之建築物是也
上人ヲ昔シ偲ベル水利之恩人トシテ如斯 報恩謝徳之意ヲ表シ代々此ノ遺物ヲ今日迄保存シ名實ヲ完シタルハ幸甚是レニ如ク●無ク文化的新庄村之誇リトシ精神界之義華ナリ(大正拾弐年満 百 拾年記念請願之謹誌)
新しくやや読みやすいものも設置されていました。
腰を掛けられる場所も。
文覚堂への道中にも案内がありました。
右上の文字を拡大。京都市の神護寺を再建したことや池のことが書かれています。
亀岡市は桜や菜の花などがとても綺麗です。
源平史蹟関係なくオススメの場所です。
駐車場については京都府観光ガイドホームページ参照↓
https://www.kyoto-kankou.or.jp/info_search/?id=3155&r=1614066997.6969
②JR「吉富」駅から徒歩約50分
③JR千代川駅前からレンタサイクルで約2時間
かめまる観光レンタサイクルホームページ↓
https://www.kameoka.info/charm/rentalbicycle/
■文覚池(池の北側から東へ徒歩5分ほどで文覚堂)
■文覚堂
文覚池の桜のことは知らず、池が近づいたときに並木が見えてスゴイ!となりました(文覚堂から池に向かった時の写真です)