平家物語覚一本によると都落ちした平家は屋島に拠点をおき、山陽道八ヶ国南海道六ヶ国を征服し勢力を盛り返しつつありました。
これに危機を覚えた木曽義仲は矢田判官代義清と海野弥平四郎行広を追討軍に向かわせ平家と合戦になったのが寿永2年(1183)閏10月1日の水島合戦です。
平家軍は大手が平知盛、搦手が平教経。
2人はいとこで、どちらも貴族的な平家というよりは武士としての素質があったようです。
教経は船同士を綱で結び、歩み板をかけ海戦に慣れた様子が読み取れます。
(出陣した人物は他の説も有り)
そして平家は勝利し約2ヶ月後には室山合戦にも勝利をおさめ、一旦離れた都へと戻れそうな勢いでした。
現地解説には源平盛衰記の内容を盛り込んで、合戦の最中に日蝕が起きたことが記されています。
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色盛者必衰の理を現はす、、、
この美文で始まる平家物語はその巻の八に及んでわが水島合戰の章に至る。
水島の門を隔てて相向う柏島には平家方、乙島には木曽義仲の客将率いる源氏方が陣取り時将に寿永2年(1183) 閏10月1日壮烈な海上戰となって源氏方が惨敗、海の藻屑と化した。
空には日蝕が現われ西風の強い日であった。
平家は水島のいくさに勝ちてこそ会稽の恥をば雪めけれ。この文で物語はこの章を結んでいる。
はじめてのこの勝ちいくさが平家を上洛の望みに誘いその後の一ノ谷、屋島、檀の浦と一路平家滅亡への転機となったこの合戰であった。
今は波靜かな玉島湾頭。
我等が源平大橋と愛称するハイウエイの大橋がここに夢の翼を拡げている。
合戰後八百年を記念してここにこの標柱を建立した。
わが郷土の歴史へ思いを馳せ又、つわもの共が鎮魂のよすがともしたいためである。
碑の一番上の黒い丸は日蝕をイメージしているそうです。
最寄りバス停を降りてから何箇所かに標識があります。
道路沿いの高い場所です。
バス乗り場↓