富士川合戦の時、源氏軍の陣を置き、源頼朝が幣帛(へいはく)を奉り、境内には二代目の「源軍物見ノ松」が植えられています。
※1時間に1~3本のため、JR吉原駅から他の史蹟を巡りながら歩くのも〇。
当社の創建に関しては、詳しいことはわかりませんが、近辺の神社に比べると、かなり古い時代から祭られていたと伝えられて神と呼ばれていたという伝えがありますし、さらに昔は、当社を見志岐里明神と呼んでいたことからも推察されますように、大変見晴らしのよい高台にあったので、富士川の源平合戦の時には源氏方の陣屋となり、東比奈の諏訪神社と共に、頼朝公より幣帛を賜ったという伝承もありますので、当社の創建年代は、少なくとも合戦の行われた治承4年以前であろうと述べられています。
静岡県神社庁の神社明細書には、当社の創建年代は、安元3年【1177】『伝』と記されています。
現在本殿内に所蔵されている昭和2年奉納の棟札の裏面に、当社の営繕上棟に関する古い検札が幾枚かのこっていたことが記されています。これらは損傷が著しく、読み取るのが難しかったが、辛うじて次の年代のものであることがわかったと書かれています。
建久元年【1190】5月11日
興国元年【1340】5月□日
天文元年【1532】□月□日
寛保元年【1741】5月11日
このことから、当社の創建年代を安元3年とする伝承は、ほぼ正しいのではないかと推測されます。
源氏の陣があった場所だからか、この鳥居に続く階段で何故か行きしも帰りしもつまずいてしまいました(;´Д`)
木々はどれも立派、本殿は新しい様子です。
台風が接近している日だったためか、人の気配もなく静まり返っていました。
そして本殿の向かいには松が植えられています。
平成25年に二代目として植えられた松が成長しています。
由緒にもある通り見晴らしの良いところだったのでしょう。
松の向こうには住宅街の屋根が見える、少し高い場所になっています。
源平富士川の合戦は治承4年(1180年)10月20日と言われています。
このとき吉永地区南部の神社に頼朝公が幣帛を供え戦勝祈願したり、見晴らしのよい御崎神社を見張り台に用いたと伝えられています。
富士郡神社銘鑑には御崎神社に「源軍物見ノ松ト傅ヘ云フ老松アリ」と記されています。
神社境内には昭和10年代前半までは、樹高高く聳える松の森がありましたが枯死したので、抜採したという古老の話しが残っています。
史話を記念して第二代として植樹しました。
平成25年10月吉日 御崎神社 総代会
また、御崎神社の前はゆるやかな坂道になっていて、「御崎坂」と呼ばれています。
この地は、富士山南麓から浮島沼につらなる岬になっています。
農耕集落が発達した古墳時代には高台に多数の墳墓群が出現し、大坂上古墳や時の首長墓とされる東坂古墳が築かれました。
八世紀には郷村の地名が好字の漢字ニ字で表現されるようになり、岬が御崎となりました。
ここ御崎には東西を貫く街道があり、北に向かう坂道を御崎坂と呼ぶようにぬりました。
そしてこの地を御崎戸ともいいますが、ここが北の集落につながる戸口を意味していたからです。
ここにある御崎神社の創建は古く、安元3年(1177)と言われています。
祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)で食物をつかさどる神として崇められてきました。
治承4年(1180)10月、源頼朝が富士川を挟んで平家の軍勢と対峙したとき時、源氏の大軍はこの辺りに陣をしき、兵糧を置いて備えました。
また、頼朝はこの御崎神社に幣(ぬさ)を奉ったと伝えられています。
境内には三本の大松があり、源氏軍物見の松と呼ばれていました。
いにしえのロマンあふれるかぐや姫の竹取物語は、ここ姫名(比奈)村が発祥の地と言われています。
かぐや姫発祥の地とされている竹採公園は、この坂から北へ800メートル進んだところにあります。
ここはかつて白隠禅師ゆかりの臨済宗曇門山 無量寿寺の跡で、禅師の墓もあります。
月澄むや 姫名乃里の竹のこゑ
幸平
吉永郷土研究会 会長 松本貞彦
御崎神社より西側は富士川合戦の史蹟が歩いて周れる距離に複数あります!
(下記の地図の史蹟はJR吉原駅から実際に全て歩きました。)
新富士駅観光案内所で得た情報ですが、岳南鉄道の吉原駅でも自転車が借りられるそうです。
行楽シーズンに富士川合戦巡り、どうでしょうか(o´∪`o)しかし、ほとんどが源氏ゆかりの地…
※各詳細は順次更新予定