源頼朝の信頼を得た畠山重忠が再興したのが出身地の現・埼玉県深谷市の満福寺です。
源頼朝挙兵の後、頼朝軍となった重忠は当時17歳。
父は平家方であったため、乳母子の榛沢六郎成清:はんざわろくろうなりきよ:にどちらにつくか意見を聞くなどしたとされています。
満福寺:まんぷくじ:
所在地 大里郡川本町大字畠山
白田山:しらたさん:観音院 満福寺は、真言宗豊山派:しんごんしゅうぶざんは:の寺院で鳥羽天皇(1110年頃)の御代に弘誓房:ぐせつぼう:深海上人が草創した。
後に畠山重忠公が寿永年間に再興し、菩提寺としたものである。
本尊は不動明王、制吨迦:せいたいか:、矜羯羅両脇侍:こんがらりょうわきじ:の三尊立像で彩色の宮殿に安置され、須弥檀:しゅみだん:、前机とともに町指定文化財になっている。
現本堂は、以前は講堂で間口十間、奥行七間あり、寛政4年(1792)建立のものである。
重忠公の菩提寺として実山宗眞大居士:じつざんそうしんだいこじ:の位牌があり、寺宝として茶釜、茶碗、太刀、長刀、大般若経、御朱印状等が伝えられている。
別棟の観音閣には、重忠公の守本尊(等身大)である六尺三寸の千手観音像が安置され、秩父坂東西国百番観音像、算額絵馬(さんかくえま。和算家が自己の発見した数学の問題や解法を書いて奉納した絵馬)等がある。
また、当寺の裏には、彰義:しょうぎ:隊士水橋右京之亮:みずはしうきょうのすけの墓、重忠廟の碑もある。
埼玉県
※補足※
寿永年間は1182年頃~1184か1185年頃。源氏が各地で挙兵した後。
重忠は長寛2年(1164)生まれとされるので21歳前後の時に再興したことになります。
境内の写真を数点。
寺院の建物の北側に墓地が広がり、その中に重忠廟があります。
黒っぽい方は何か不明でした。
元久2年(1205)6月22日
執権を握った北条時政に謀反を企てているとされ、討たれました。
重忠42歳(数え年)、源頼朝没後6年後のことでした。
平家目線だと壇ノ浦合戦から20年後。
重忠が討たれた二俣川は現在の神奈川県横浜市ですが、この菩提寺にて手を合わせるのもまた1つかと思います。
満福寺から北へ徒歩5分ほどで「井椋神社」と「鶯の瀬」へ到着します。
どちらも畠山重忠ゆかりの地です。
合わせて探訪できるのは嬉しいですね。
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