寿永3(1184)年2月7日の一ノ谷合戦で生け捕りにされた平重衡は、京を引き回された後に東国へ送られました。
3月27日に伊豆に着き、翌28日に伊豆にいた頼朝と対面、4月8日には鎌倉入り。
吾妻鏡によると4月20日に重衡は沐浴を許され、千手前:せんじゅのまえ:と呼ばれる官女が遣わされ、工藤祐経や藤判官代邦通らと酒宴が開かれました。
工藤祐経は平重盛に仕えていたことがあり、重衡とも面識があったとか。
この辺りの話は吾妻鏡だけてなく平家物語にも詳しく描かれていて、重衡の人柄がべた褒めされています。
また、千手前は20歳くらいでとても美しい人だと平家物語で語られています。
この酒宴の場所が教恩寺とされています。
教恩寺のあらまし
【宗旨】 時宗:じしゅう:
一遍上人がお開きになった宗派で、「南無阿弥陀仏」のお念仏をお唱えすることを本分とします。
総本山は藤沢の遊行寺です。
【本尊】 阿弥陀三尊(神奈川県指定文化財)
阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩の立像で、源頼朝が平重衡に、平家の菩提を弔うように与えられたと伝わる。
【山門】
正面に十六羅漢・裏面に牡丹の彫刻が施してあるのが見どころである。
【開基・開山】
開基は北条氏康(1515~1571年・小田原北条氏の三代目当主、元亀2年10月21日没。法名 大聖院殿東陽岱公大居士)で、開山は知阿上人と伝わる。
その昔は、浄土宗大本山である材木座の光明寺境内にあったが、延宝六年(1678)貴誉上人の時に現在地に移されたと伝わっています。
【平重衡とのゆかり】
平重衡は、平清盛の子(五男)で、その容姿を牡丹の花に例えられ、ユーモアのセンスもある優しく爽やかで、しかも凛々しく武勇を誇る平家の副将軍だったといいます。
重衡は源平の合戦で平氏が敗れ、撤退の際、梶原景時に捕らえられ、捕虜として鎌倉へ護送されたのですが、源頼朝の尋問に対しても武将らしい堂々たる態度と、優雅な物腰の立派な人柄は頼朝を感嘆させ、捕虜の身でありながら特別な待遇を受け、頼朝の仕女である千手を侍らし酒宴を許されたという。
この酒宴が縁で重衡と千手の二人は恋に落ち、重衡が護送されるまでのつかの間、癒された日を過ごすことが出来たといわれます。
やがて重衡は奈良へ護送され、文治元年(1185)6月23日、木津川のほとりで斬首処刑されたのですが、その後の千手の足取りは定かではなく、悲しみのあまり床に伏し、そのまま生涯を閉じたとも、又出家したともいわれ、消息不明となってしまったと言われる儚い悲恋の逸話があり、その酒宴を催された場所が今の教恩寺と伝わっています。
あらましの「裏面に牡丹の彫刻が施してあるのが見どころである」確かに凝った彫刻です。
正面の十六羅漢もかなり細かいです。
拝観については事前連絡と知人から聞いていたのですが、今回は何時にお参りできるか不確定だったためとりあえず境内のみ散策してきました。
次回、鎌倉を訪れる時には御朱印もお願いしたいと思います。
境内から山門方向。頭すれすれ。高身長の方は注意ですね。
https://www.trip-kamakura.com/place/kyouonji.html