源頼朝が奥羽東征の時に戦勝祈願をし、腰を掛けた石が残る熊野神社。
平安末期―「蟻の熊野詣で」と言われるほど貴族も一般人もこぞってお参りした熊野(現・和歌山県)
東北の地からは遠いため、鳥羽天皇の保安4(1223年)に紀州から熊野本宮大社、熊野那智神社、熊野新宮社を分霊したのが名取熊野三社で、熊野神社は熊野新宮社に相当します。
熊野堂バス停下車、北西に歩くと交差点に「紀州熊野の分霊 熊野神社」の案内が見えます。
不思議な印象の鳥居でした。
鳥居をくぐると池の向こうに拝殿が見え、視界が開けました。
池の左手にあるのが「源頼朝公腰掛之石」
斜めになっているうえに、かなりボコボコしていて坐り心地はよくなそうな印象でした( ̄▽ ̄;)
壇ノ浦合戦から約4年後の文治5年、源頼朝が奥羽東征(藤原泰衡との戦い)の際に武運を祈り奏功したため、松を植えたと伝わっています。
しかし松は跡形もなく、神社の方のお話では腰掛石の辺りに松があったであろうということでした。
頼朝がお参りしたころには創建されてから100年未満。
現在では境内はかなり変わっているそうで頼朝が見た熊野神社はどんな境内だったのでしょうか。
松があったであろうと伝わる付近。手水舎の後ろが頼朝の腰掛石。
当神社は、熊野新宮社、熊野本宮社、熊野那智神社を合祀し熊野神社と称号し御祭神は速玉男大神、伊邪那伎大神、事解男大神の三柱であります。
保安4年、今を去る854年前名取老女紀州熊野は遠隔の地とて奥羽の人々親しく参詣の望を遂げ難きを憂い人皇74代鳥羽天皇の神勅を拝し此の霊地に分霊奉斉致しました。
以来奥羽鎮護の神として国民崇敬の中心となり18の宿坊に宿し日夜法鼓の響絶間なく参拝者を増しつつあり、崇徳院の御宇826年前紀州熊野の山伏松島、平泉の勝を探らんと一夜を熊野の証誠殿に参籠した夢枕に熊野大神汝等奥洲に至らば老女にこれを与えよと、和歌「道遠し、程もはるかに隔たれり、思ひおこせよ我も忘れじ」奥洲に下り老女を尋ね事の由を告げたるに恭敬礼拝を重ね有難さの余り両袖を涙でぬらされた。
茲後文治5年790年前 源頼朝公奥羽東征の際武運を祈願せられ軍に赴き霊験功を奏し、帰途7月10日諸願成就報斉のため本殿前に松樹を手植し亦自筆の御判物など今に保存せられて居ります。
其の後、(中略)
尚、神社の古代神楽は古事記の内容を基本にした素朴な舞で社家世襲により伝承されて居り、毎年春4月19日、秋旧9月9日の大祭に奉納されております。
大正10年8月27日郷社に昇格、爾来歳月と共に郷人の崇敬益々厚く信徒の数を増加しつゝあり、昭和10年11月1日懸社に昇進、今日に及べり、奥院本殿は江戸初期の熊野造として貴重な建物です。
熊野神社宮司 謹識
「信徒の数を増加しつゝあり」とある通り、私の参拝中にもお参りの方が何名かいらっしゃっていました。
雰囲気があり、落ち着く場所です。
帰宅してから気づいたのですが、いただいた由緒を読むと頼朝は「杉樹を手植えし」とあり松?杉?どっち??ってなりました(^^;
いつかもう一度お参りできる機会があったら確認したいと思います。
速玉男命、伊奘冉、事解男命
(はやたまのおのみこと、いざなみのみこと、ことさかのおのみこと)
配祀
事代主命、面足命、埿土煮命、沙土煮命
(ことしろぬしのみこと、おもたるのみこと、ういぢにみこと、すいぢにみこと)
境内社
老女宮(祭神・老女神)
由緒
昔名取郡に一老巫女かいて、深く紀州熊野の三神を信じ、しばしば登拝したが年老いて長途の旅に堪えず、鳥羽天皇の保安4年(1123)三神の神霊を名取河南飛鳥丘に地を模し、紀州を象り西北に熊野本宮社、西南(吉田)に熊野那智神社を創建したと伝える。
当社は熊野新宮社にあたり、中央の証誠殿:しょうじょうでん:には速玉男命、東側の那智飛龍権現社には事解男命、西側の十二社権現社には伊奘冉命を祀る。
その西側には、勧請伝承に関わる名取老女宮が並び建っている。
飛龍権現社の東には、社殿はないものの、神命を記した八本の石柱が立ててある。
文治5年7月、源頼朝奥州東征の際武運を祈り、霊験功を奏したので再び当社に詣で深く射拝し境内に杉樹を手植えし真筆の判物を奉納且つ禁制書を寄進した。
爾来武門は勿論庶民迄其の神徳を崇めるに至った。
殊に仙台藩主政宗四代の祖、種宗をはじめ歴代の藩主は重ねて神領を寄進し社殿を修営した。
熊野新宮社は東北地方における熊野信仰の中心地として隆盛を誇り、中世には名取熊野別当が置かれ、宗教的にも軍事的にも大きな権力を持つに至った。
明治に至り神仏分離し元熊野新宮証誠殿:もとくまのしょうじょうでん:と呼んだのを現社号に改められた。
大正10年8月郷社に、更に昭和10年11月県社に列せられた。拝殿の前には御手洗と称する神池が広がり浮島には神楽殿と、弁財天堂が有る。
御本殿は宮城県指定有形文化財に指定されている。
拝殿はこちら。
その後ろに老女の宮、十二社権現社、証誠殿、那智飛龍権現社が立ち並んでいます。
池の真ん中にある神楽殿へも橋を渡って行けます。
御朱印の見本はなく、お願いしたら笹竜胆でした!!
交通安全の御守りも笹竜胆。
神社の方に質問すると、源頼朝に関係しているであろうということでした。
社紋が笹竜胆だそうです。
JR仙台南駅西口から尚絅学院大・那智が丘 柳生行きに乗車。
本数にご注意ください。写真は2019年9月16日撮影。
熊野堂バス停で下車して徒歩約5分です。
熊野堂バス停すぐのところに新宮寺。お寺ではありますが名取熊野三社に関係するかも?とお参りしました。
読み取りが困難…(;´・ω・)
そして頼朝の腰掛石のある熊野神社から徒歩約1時間の住宅街には熊野那智神社があるそうです。
ここには「伊勢熊野の分霊社」と書かれています。
那智が丘と書かれた石。私の探訪はここまでです(^^;
熊野那智神社公式ホームページ → http://kumanonati.com/lesson.html