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光明寺<京都府長岡京市>

紅葉で有名な光明寺

蓮生(出家した熊谷直実)が師である法然上人を開山一号として建立。
法然上人は平重衡に授戒したり源平の時代に重要な人物で、この地でお念仏を初めて説かれました。

紅葉の時期には多くの参拝の方で賑わいます。
灯籠と紅葉

住所
京都府長岡京市粟生西条ノ内26-1
交通
①阪急「長岡天神」駅から阪急バス約15分「旭が丘ホーム前」バス停徒歩5分
②JR「長岡京」駅から阪急バス約25分「旭が丘ホーム前」バス停徒歩5分

参拝について
紅葉時期とそれ以外の時期で参拝時間や拝観料などが異なります。
また紅葉時期は臨時バスも用意されています。
詳しくは光明寺ホームページでご確認ください。
http://www.komyo-ji.or.jp/
参拝目安時間
60分~
お気に入り度
★★★★★
参拝日
2016/12/04
備考
一脚、三脚使用禁止
解説板より
当寺は西山浄土宗の本山で寺伝によれば、建久9年(1198)に蓮生法師(れんせいほうし・熊谷次郎直実)により創立され、法然上人を開山第一世としています。
境内は広く、洛西一の伽藍を誇り、主要な建物は山内に点在して廊でつながれています。

応人、元亀、天正の兵火にあい、江戸時代には享保19年(1734)の火災により焼失し、大半の建物はそれ以後の建立です。
總門をくぐり美しい石畳の参道を登ると、正面に壮大な御影堂が、その右奥には阿弥陀堂があります。
御影堂は宝暦3年(1753)の再建で、派手な装飾はないが全体的構成の精美性を意匠の主眼としたものです。
阿弥陀堂は寛政11年(1799)の建立で、本堂より少し華やかな造りになっています。

御影堂の後方にある御廟は明暦2年(1656)の再建で禅宗様(ぜんしゅうよう)を基調とした華麗な造りです。
軒下回りの組物には多くの彫刻が施され、廟内の板壁は飛天や雲、蓮の花などが極彩色で描かれています。
その前にある拝殿は山内では最も古い承応2年(1653)の建築です。

御影堂の左下には、元文元年(1736)の釈迦堂、勅使門があり、庫裏(くり)、講堂へと続きます。
天保4年(1833)に建立された講堂は食堂とともに浄土宗寺院でも檀林(だんりん・仏教の学問所)に関する類例の少ない遺構群であります。

平成5年2月  長岡京市教育委員会

説明

西山(せいざん)浄土宗総本山。建久9年(1198)、法然上人の弟子・蓮生法師(れんせいほうし・熊谷次郎直実)が、師のすすめによってこの地に草庵を開いたのが始まりです。
その後、法然上人の高弟である證空(しょうくう)上人とその弟子達に受け継がれてきました。

光明寺の周辺、粟生広谷(あおひろたに)の地は、法然上人が初めて念仏の教えを説いたところです。総門の前に「浄土門根元地」の石碑が建てられているのは、正親町(おおぎまち)天皇より「法然上人ノ遺廟(ゆいびょう)、光明寺ハ浄土門根元之地と謂イツベシ」という綸旨を賜ったことに由来しています。
総門をくぐり、ゆるやかな石段を上がると宝暦3年(1783)に建てられた御影堂が見えてきます。

この御影堂には建永の法難で四国へ流罪と決まった法然上人が弟子の願いに応えて自らお作りになったといわれる「張り子の御影(みえ)」が祀られています。
また、その背後の丘には法然上人の御遺骨を納めた御本廟(非公開)があります。
多くの寺宝には木造千手観音立像や絹本着色ニ河白道図(けんぽんちゃくにがびゃくどうず・鎌倉期:東京国立博物館勧告保存)などの国指定重要文化財も含まれています。

境内には樹齢150年を超える楓の木々がたくさんあり西山の紅葉の名所として有名です。
解説

熊谷直実と法然上人
解説板より
蓮生法師(れんせいほうし・熊谷次郎直実)と法然上人(ほうねんしょうにん)
寿永3年(1184年)、源平一の谷合戦。関東一の剛の者と呼ばれた熊谷次郎直実は、源義経率いる奇襲部隊に所属し、戦に臨んでいました。
この戦いで良き敵を探し求めていた直実は、波際を逃げようとしていた平敦盛(平清盛の甥・当時16歳)を呼び止め、その首を打ち取ります。しかし、自分の息子ほどの年齢の若武者を殺めたことで直実は悔恨の念と世の無常を感じることになります。

建久4年(1193年)、直実は犯した罪を償うために武士を捨て、東山吉水の法然上人を訪ねて仏門に入ります(法名・法力房蓮生 ほうりきぼうれんせい)。建久9年(1198年)、修行を経た蓮生法師は、喧噪の吉水を離れ、静かに念仏を称えられる地を求めて、ここ粟生(あお)の地に寺を建立します。

そして、法然上人を招いて落慶法要を行い、上人を開山第一世、自らを第二世とし、上人から「念仏三昧院」の寺号をいただきました。
これが光明寺の発祥です。

法然上人は建暦2年(1212年)になくなりました。晩年は、奈良や比叡山の古い教団から迫害を受けていたといいます。

死後の嘉禄3年(1227年)、比叡山の僧徒が、東山大谷の上人の墓を暴き、遺骸を鴨川に長そうと企てます。
この企てを知った弟子達は、秘かに遺骸を太秦の西光寺(さいこうじ)に移しました。
翌安貞2年(1228年)、上人の石棺が光明を放ち、粟生の地を照らすという不思議な事が起こったため、遺骸をこの地に移し、火葬にして裏山に御廟を建てました。

この時の奇瑞にちなみ念仏三昧院は四条天皇より「光明寺」の寺額を賜り、以後、光明寺と呼ばれるようになりました。

熊谷直実こと蓮生と法然上人

境内には法然上人ゆかりのものが多数あります。参拝された際はぜひ探してみてくださいね。
石碑

法然上人立像

法然上人袈裟掛松
何代目?

遠くからのみ見える

法然上人御火葬跡

「蓮生閣」については説明がなかったのですが、熊谷直実が蓮生なのでちなんで名付けられた??
蓮生閣は立入禁止

蓮生閣の屋根

境内案内

紅葉を見ながら紅葉を食べる(‘▽’*)♪

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生湯葉丼と紅葉の串天

源平餅なるものも販売されていました♪
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蓮生や法然上人を偲びながら紅葉を楽しんでみてはいかがでしょうか?(^-^)?
もみじ

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