この広い境内のほとんどが焼失した平安時代末期、治承4年(1180)12月28日の南都焼討を中心に話を進めたいと思います。
その頃は興福寺を中心として僧兵たちが寺院勢力として力をもっていました。
そして自分の孫を安徳天皇とした平清盛をはじめとする平家が栄華を極めていることに不満をもっており、また打倒平家に立ち上がった源頼政、以仁王(後白河法皇の息子)に加担したことが原因で平清盛が南都を攻めるように五男・重衡、甥の通盛をそれぞれ大将軍、副将として送り込みました。
僧兵の1人、坂四郎永覚:さかのしろうようかく:という十五大寺(興福寺、東大寺、法隆寺、新薬師寺、不退寺など15山)で1番の剛の者と言われた人物が戦いしばらく持ちこたえたが防ぎきれずに南へ落ち延びていったそうです。(平家物語覚一本より)
そんな僧兵たちをイメージした(?)『悪僧手ぬぐい』が販売されています。
※「悪」は強いという意味です。
興福寺の売店は南円堂前や中金堂横など複数ありますが、この手ぬぐいは国宝館で見付けました。
興福寺内でも取扱い場所が決まっているのかもしれません。ちなみに1320円です。
その他、文章に長けていた僧も。
源頼政が以仁王に平家打倒をもちかけ、以仁王を匿った園城寺から届いた牒状に返事をしたのが最乗房信救:さいじょうぼうしんぎゅう。最乗坊信救とも:。
最乗房信救の返書には「清盛入道は平氏の糟糠(そうこう=かす)、武家の塵芥(ちんがい=ごみ)」とも書かれ、強い不満が見いだせます。
しかし、この返書が清盛の知るところとなり信救は興福寺を逃げだし、後に木曽義仲の右筆となり大夫房覚明:だいぶぼうかくめい:と名乗りました。
脱線しましたが、南都焼討の話しに戻ります。
この時期は日が暮れるのも早く、戦は夜になってしまいました。
約2km北方向にある般若寺付近に平家が陣を置いており、灯りをとるための火が強風に煽られ、また乾燥する冬であったことも災いしてあっという間燃え広がってしまいました。
その被害は興福寺から南西へ約3kmほど先の大安寺(http://www.daianji.or.jp/about/history/history5.html)にまで及んでいるようです。
また、遠く離れた當麻寺(たいまでら:奈良県葛城市當麻1263)まで別動隊により焼かれました。興福寺の勢力下にあったためと公式ホームページに書かれています(http://www.taimadera.org/history/p4.html)
そこまでする?!そして別動隊とは平家一門または平家の郎等の誰かが出陣した??
源平のころのゆかりの建物。
崇徳天皇の中宮・皇嘉門院が建立。37年後、南都焼討で焼失しました。
康治2年(1143)に崇徳天皇:すとくてんのう:の中宮の皇嘉門院:こうかもんいん:の願建
治承の乱にて焼失して鎌倉時代に再建
普段は内部非公開で人通りもまばらですが、2016年の公開時には多くの人出がありました。
三重塔近くにあるのが重要文化財の南円堂(後ろ側から撮影)
2018年10月7日、約300年ぶりに再建された中金堂の落慶法要が開催されました。
興福寺創建1300年の2010年から8年かけての大工事。
和銅3年(710)に建てられ、創建者は藤原不比等。
何度も焼失と再建を繰り返してきました。
平重衡軍による南都焼討のときは4回目の被災だったと、興福寺公式ホームページに記されています↓
https://www.kohfukuji.com/about/column03/
工事中、何度か外観を見に行ってみました。
2018年6月20日
2018年7月21日
2018年10月7日落慶法要
屋根の上で幕に包まれていた鴟尾:しび:の序幕。
鴟尾:しび:は魔除けの意味があるそうです。
散華が素敵でした。
2018年10月20日~11日11日までライトアップと夜間拝観も開催されていました。
通常は9:00~17:00まで有料で内部を拝観できます。
個人的に好きなのはここ。興福寺境内は桜は少ないですが、春らしい風景も。
なら燈花会:とうかえ:とライトアップ
毎年8月15日の奈良大文字送り火
屋根の上にも美しさが。
奈良県庁屋上から見渡す興福寺一帯。
屋上は無料で開放されています。
屋上の開放は奈良県のホームページでご確認くださいね。
http://www.pref.nara.jp/4203.htm
興福寺は藤原氏の氏寺、春日大社は藤原氏の氏神だったこともあってか密接な関係にありました。
また、興福寺の年中行事ページ(https://www.kohfukuji.com/event/kasugashasanshiki/)にあるように平安時代末期は神仏習合、仏も神も1つという考え方でした。
これは奈良の鹿愛護会の見学会の時に伺った話ですが、鎌倉時代ころから興福寺は今でいう県庁のような役割で警察や裁判官などのようなことも担っており、そのため神鹿といわれる鹿を傷つけたりすると興福寺が出向いていたそうです。
元は山階寺、和銅3年(710)の平城京遷都の時に興福寺となりました。
気になるのは仮講堂と書かれている場所。
整備事業はまだまだ続くようで、今後の変化が楽しみです。
②JR「奈良」駅から東へ徒歩17分