壇ノ浦合戦で生け捕りにした平宗盛・清宗親子を源頼朝の命で源義経が、鎌倉まで護送しました。
護送といっても義経は酒匂(現・神奈川県小田原市)に到着し、翌日鎌倉入りする予定が頼朝から待つように伝えられ北条時政たちが宗盛親子を鎌倉まで連れていきました。
吾妻鏡を基に日付にすると
5月15日 源義経、酒匂に到着
5月16日 北条時政に連れられ平宗盛親子が鎌倉へ。宗盛、食事が喉を通らない。
5月24日 腰越状
6月7日 源頼朝、簾越しに平宗盛と会う
6月9日 源義経、頼朝の命で平宗盛親子と帰洛の途につく。
6月9日 平重衡は源頼兼(源頼政の子)が南都へ護送。
6月21日 平宗盛親子、誅殺
6月23日 平重衡、斬首
こうなります。
頼朝からは音沙汰ないまま義経は東へ移動したのか江の島の近く、腰越(現・神奈川県鎌倉市の西端)で大江広元宛に心情を綴った文を認めました(下書きは弁慶とも)
これが世にいう「腰越状」で、満福寺境内には義経と弁慶像があります。
この銅像の義経の目線の先が謎!!
つい、どこ見てんねん?!て言いそうになりました💦
弁慶も角度によっては手元を見ていないようにも見えます。
筆より先に文章が!!
色んな角度から撮ってみるのも面白いかもしれません。弁慶の筆の持ち方。
本堂では腰越状が展示されており、有料で拝観できます。
また、ミニ腰越状が200円で販売されているのでお土産などにオススメです!!
弁慶にゆかりの品々も
そういえば兵庫県の書寫山圓教寺にも弁慶のお手玉石があります。こんな大きな石でお手玉をする弁慶、見てみたい。
弁慶が墨をするのに使った水が硯の池です。
義経宿陣址
門前には案内板が設置されています。
鎌倉時代前期の武将、源義経は、幼名牛若丸、のちに九郎判官と称した。
父は源義朝、母は常盤。源頼朝の異母弟にあたる。
治承4年(1180)兄・頼朝の挙兵に参じ、元暦元年(1184)兄・源範頼とともに源義仲を討ち入洛し、ついで摂津一ノ谷で、平氏を敗った。
帰洛後、洛中の警護にあたり、後白河法皇の信任を得、頼朝の許可なく検非違使・左衛門少尉となったため怒りを買い、平氏追討の任を解かれた。
文治元年(1185)再び平氏追討に起用され、讃岐屋島、長門壇の裏に平氏を壊滅させた。
しかし、頼朝との不和が深まり、捕虜の平宗盛父子を伴って鎌倉に下向したものの、鎌倉入りを拒否され、腰越に逗留。
この時、頼朝の勘気を晴らすため、大江広元にとりなしを依頼する手紙(腰越状)を送った。
「平家物語」(巻第12腰越)には次のように記されている。
(中略)
しかし、頼朝の勘気は解けず、かえって義経への迫害が続いた。
義経の没後、数奇な運命と悲劇から多くの英雄伝説が生まれた。
「義経記」や「平家物語」にも著され、さらに能、歌舞伎などの作品にもなり、現在でも「判官もの」として親しまれている。
中世には鎌倉と京との結ぶ街道筋のうち、腰越は鎌倉ー大磯間に設けられた宿駅で、西の門戸であった。
義経はここ満福寺に逗留したと伝えられている。
この説明の下には2022年放送の大河ドラマ・鎌倉殿の13人に合わせて設置された説明も
本堂より東側に「静庵」という建物があります。
高台からの眺めは絶景ということなので上ってみました。
※ちなみに自販機近くの階段を間違って上ると硯の池が見下ろせました。
屋上?は休憩できるようになっていて海が見えます。
よく見ると屋根には源氏の家紋・笹竜胆紋が。
それと満福寺の墓地かは分かりませんが、屋根より高い場所に広い墓地がありました(写真右奥)
駅の近くでみかけた七里ヶ浜霊園が屋根より高い所にある墓地?
立地もすごく、江ノ電がすぐ近くを走っています。
結局、頼朝からまともな返事がないまま義経は頼朝に会うこと叶わず、宗盛親子を連れて京へ戻る途中で誅殺するのでした。
義経の心情をこの地で考えてみるのも一興かと思います。いや、個人的には弁慶の心情の方が気になるところです。