寿永3(1184)年の木曽義仲と源範頼・義経の源氏同士の戦い「粟津原合戦」。
この戦いで活躍した義仲軍の巴の供養塔が国分寺境内にあります。
また、この地にはかつて「兼平寺」があったそうです。
※供養塔はかなり新しい様子です。(2016.10.23撮影)
粟津国分尼寺は後白河天皇が薬師如来像を下賜し建立させられたが、粟津原合戦で焼失し、薬師像は別保八幡宮の森に遷されていた。
その後、当地に建てられた兼平寺が宝永3年に他に移ったのでその跡地に当寺が再建された。
今回、粟津原合戦八百年記念に同合戦で活躍した巴の供養塔を建てるに当り、粟津の合戦にも兼平ともゆかりのある当寺の境内に建立させていただいた次第である。昭和59年5月
八百年記念事業の会
巴は木曽義仲の側室。
平家物語覚一本によると粟津原合戦で多数が討ち取られていく義仲軍の中で、最後まで残った5騎のうちの1騎が巴です。
巴は長い髪で色が白く容貌も美しく、強弓をひき荒馬を乗りこなし、刀を持って鬼でも神でも立ち向かう一人当千の兵と伝えられています。(義仲にはもったいな過ぎる!!)
義仲から落ち延びるように何度命じられても、なかなか義仲の側を離れませんでした。
しかし5騎となり、東国で大力と有名な御田の八郎師重が30騎で攻めてきた時は、巴が駆け入り師重の首をねじ切って落ちて行ったと云われています。
粟津原合戦八百年記念として活躍した巴の供養塔が建てられたとあり、ここで命を落としたわけではないないことが伺えますね。
巴のその後についてははっきりしませんが、和田義盛の妻になった説や、いつの頃か義仲の弔いのために粟津に戻り庵を結び、それが起源となって「義仲寺」になったとも伝わっています。(義仲寺へは京阪粟津駅から5駅先の膳所駅より徒歩)
住宅街の寺院で側には遊具も置かれていて、この地域で巴は身近な存在であってほしいと思いました。
巴の兄・今井兼平は義仲とは乳兄弟。
義仲が討ち取られたことを知ると東国武士に自害の手本を見せてやると、刀を咥えて馬から飛び降り、凄烈な最期を遂げました。
どうやらこの今井兼平のために建てられたようですが、詳細不明です……
国分寺から徒歩約7分の所に兼平庵と墓が存在しています。
今井兼平についてはそちらに記載します。
巴・兼平兄弟の心意気は目を見張るものがありますね!