一ノ谷合戦で生捕りとなった平重衡は鎌倉に送られ滞在していましたが、壇ノ浦合戦で多くの平家一門が入水した後は南都の僧たち要求により、引き渡され木津川河原で首を斬られました。
南都の僧たちが重衡を大罪人としたのは大仏まで焼けてしまった「南都焼討」の総大将だったためです。
不成柿の北側に平重衡が処刑されたと云われる木津川が広がっています。
平家物語覚一本によると見物に数千人が集まったそうです。
重衡に仕えていた木工右馬允:むくうまのじょう:知時:ともとき:が最期を見届けに人込みをかき分けてやってきました。
仏を拝みながら斬られたいと言う重衡に知時が近隣の寺院から阿弥陀仏を迎え、狩衣のくくり紐を仏の手にかけ、一方を重衡が持ちました。
そして重衡は声高く念仏を唱え、首を斬られました。
首は般若寺に釘付けにされ、胴体は河原に捨てられたままになっていました。
正妻の大納言佐殿(藤原輔子)は胴体を迎えを遣わせ、首も手をまわしてもらい受け、京都の日野にある法界寺で火葬にしました。
骨は高野山へ送り、墓は日野に建てました。
この河原のどこかで……
この付近は交通量が多いためお気を付けください。
木津川の南側に「平重衡首洗池」と土地の人が哀れんで植えた「不成柿:ならずがき:」と呼ばれる柿の木が住宅の一角にひっそりとあります。
平清盛の五男、平重衡は、治承4(1180)年12月28日、源氏に味方する東大寺・興福寺を焼き打ちしました。
その後、一ノ谷の戦いで源氏に敗れた重衡は、虜囚となって鎌倉の源頼朝のもとへ送られましたが、南都の衆徒の強い引き渡し要求に頼朝も折れ、元暦2年(1185年)6月23日、木津の地まで送られてきました。
南都の衆徒は、木津川の河原で、念仏を唱える重衡の首をはね、奈良の般若寺にさらしました。
その際、この池で首を洗い持参したと伝えられています。その後、重衡を哀れんだ土地の人々は柿の木を植えましたが、一向に実のらず、このことから不成柿と称せられています。
国鉄奈良線の東側にある安福寺には、重衡の引導仏といういわれをもつ阿弥陀如来を納めた哀堂と十三重の供養塔があります。
昭和59年3月 木津町教育委員会
しかし現在は柿が実っています!!
いつも命日ころのお参りなので緑色の柿しか見たことありません(;・∀・)
そして首洗池は私が訪れたときはいつも、草が生い茂り水が確認できませんが、2011年は水たまりようになっていました。
一角に畑もあり、蝶を見かけることも度々。ホッとする光景ですね。
※追記※
2022年1月23日に訪れた時には周辺で工事が始まっており『重衡団地』『重衡住宅線』と重衡の名がつけれていることが確認できました!
ここが重衡住宅線かも?!
安福寺のご住職にお聞きした話しですが、首洗池・不成柿のすぐ西側は通称「重衡団地」と呼ばれているそうです。
↑このプレートは2017~2018年くらいにしか見かけていませんがやはり「重衡」と付いている住宅地なんですね。
木津川市ホームページの市営住宅の概要にも重衡団地の名称が確認できます↓
https://www.city.kizugawa.lg.jp/index.cfm/6,209,24,123,html