平治元(1159)年12月10日。熊野詣の途中だった平清盛、平重盛達が後に平治の乱と呼ばれる異変を知ったのが、この切目王子社近だったと云われています。
また、その東側には正治2(1120)12月3日、熊野御幸の際に歌会を行った場所が御所屋敷跡(太鼓屋敷 切目王子社旧阯)として碑が建てられています。
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切目王子社は崇神天皇(第10代天皇)の67年(2世紀~3世紀)の建立と伝えられ、天照大神より5代にわたる神霊を祀る。
平安・鎌倉時代(11~13世紀)の300年間は特に熊野詣でが盛んで、この時期御幸の中継遥拝地点として数百人もの宿泊地となった。
京都新宮間には九十九の王子社がありその中に五体王子と呼ぶ5つの大きな王子社がある。
当社はその1つで多くの歴史に富んでいる。
次の事項はそのうちの著名なものである。
一、平治の乱における平清盛、重盛の評定(1159年)
熊野詣での途次、都の反乱を早馬で知らされ一族はこの社前で議定、直ちに引き返し大勝に至った(平治物語より)
一、後鳥羽上皇御歌会の所(1200年)
後鳥羽上皇一行11人御歌会の切目懐紙(現在西本願寺蔵…国宝)の写しを蔵す。
(中略)
昭和34年和歌山県文化財に指定される。 以上
昭和60年1月吉日
印南町・元村区・切目神社
平清盛、平重盛親子が熊野詣に出掛けて約6日。
京からの早馬で藤原信頼が源義朝と手を組んで後白河上皇、二条天皇を幽閉したことを知らされました。
それと同時に後白河院政の頭脳ともいえる信西の邸が襲撃されていました。
藤原信頼は後白河上皇のお気に入りの側近で、後白河上皇の下で権力を振るう信西と対立し、排除しようと信西をよく思わない人々と結託して起こしたのが平治の乱の始まりです。
清盛の娘の婿が信西の息子だったこともあり、清盛と信西は家同士の結びつきもありました。
知らせを受けた時、清盛一行はわずか10数騎。
一旦西国へ兵を集めに行ってから対抗しようと言う清盛に、すぐに京に戻るべきだと進言したのが重盛。
ちなみにこの時、清盛は数え年で42歳、重盛は22歳(平治物語では23歳)。この頃の重盛はかなり血気盛んな様子がうかがえます。
代々平家に仕える平家貞が、武具を準備していた用意周到さもあってすぐに京へ引き返すことになりました。
そして、紀伊の国の武士・湯浅宗重や熊野別当・湛快の援軍もあり、数百騎で京に戻ったと云われています。
湯浅宗重が築いた湯浅城はこちら
有田郡湯浅町 | 平治の乱の時に平家に味方した湯浅宗重が築いた 湯浅城址 >> |
湯浅宗重 |
熊野古道、切目神社への道標の傍の岩には熊野の八咫烏が刻まれています。
切目王子社から南東の方角に徒歩約3分、『御所屋敷跡(切目王子社旧阯)』の碑があります。
安徳天皇の異母兄弟・後鳥羽上皇は正治2(1200)年、熊野御幸の際にこの地で歌会を開きました。
治承4年(1180)7月14日生まれ、この歌会の時は数え年で21歳。
歌人としても知られ、後に新古今和歌集の編纂させています。
熊野速玉大社の記録では後鳥羽上皇の熊野御幸は29回とされています。
碑の側に立つ解説
より詳しくは近くのブロック塀に説明がありました。
江戸時代後期の『紀伊名所図会』によると、「御所屋敷、切目王子の社地の艮(北東)にあり。後鳥羽院熊野御幸に、正治2年12月3日、此御所にて歌会の御会ありし事……」とある。
歌会で、したためられた11人の懐紙は、「切目懐紙」と称せられ、現在、京都西本願寺に国宝として所蔵される。
この場に佇む時、ふと、今から800数年前、時の権力者、後鳥羽院一行は、厳しい旅の道中、この屋敷での歌会は心癒すひとときであっただろうことが偲ばれる。
この畑地(寺下家所有地)より、掘り出された陶器の欠片を鑑定に出したところ、このほど、鎌倉時代のものと判明、「御所屋敷跡」の裏づけとして考えられる。
平成22年(寅)6月吉日
印南町文化協会
後鳥羽天皇が上皇となったのは建久9(1198)年。
息子の為仁親王に譲位し土御門天皇が即位、後鳥羽上皇の院政時代2年目の時です。
これは2015年の写真です。現在は整備され周辺が多少変わっているようです。
切目王子社にお参りの際はこちらにも立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
■御所屋敷跡
JR切目駅の名所案内にも切目王子社が記載されています。