鎌田政光(鎌田政清の子で源義朝の郎等の1人)が常陸(現・茨城県)の鹿島神宮から勧請したことに始まるとされています。
鹿嶋神社の由緒(http://kasimajinjya.web.fc2.com/yuisyo.html)も交えながら、経緯は先ず平治の乱から。
平治の乱で敗北し源義朝と共に、現在の愛知県知多半島の長田忠致の屋敷に辿り着いた郎等・鎌田政清(子供の鎌田政光も一緒だった?)。
鎌田政清の妻の父が長田忠致:おさだただむね:で、東国へ落ち延びる途中でした。
平治の乱では源義朝は藤原信頼と組み、二条天皇と後白河上皇を軟禁し、上皇の側近・信西を討ちとりました。
しかし熊野詣の途中で急いで引き返した平清盛たちにより二条天皇は救出され、後白河上皇は自力で脱出。
天皇も上皇も監視下からいなくなった源義朝、藤原信頼は朝敵となってしまいました。
また、藤原信頼は戦にはまるで不向きで戦力にはならず、敗北は決定的。
鎌田政清の進言で東国へ落ち延びることを決めた源義朝一行は苦労して東を目指します。
その途中で立ち寄った長田忠致の屋敷。
恩賞目当てに源義朝一行は長田忠致に攻められ、鎌田政清も討たれてしまいました。
しかし鎌田政清の子・鎌田政光は難を逃れ、常陸まで落ち延びることができました。
鹿島神宮で源氏再興を祈願、夢のお告げにより西国を目指し鹿島神宮に似ているこの地に勧請したと伝わっています。
※鎌田政清の子供については不明なことが多い
鹿島神社は、承安2(1172)年3月、源義朝の家臣であった鎌田小次郎政光が常陸国(現茨城県)鹿島本宮の御分霊(武甕槌命:たけみかづちのみこと)を勧請したのが始まりと伝えられています。
本社には氏子の宮座である結鎮座があり、神社に奉仕して祭礼をおこなっていたことから、座の組織や年中行事などを記した46点から成る「結鎮座文書」(県指定文化財)があります。
村落構造や宮座構成の変遷を考えるうえで貴重な史料となっています。
とくに宮座への入衆記録:にゅうしゅうきろく:である「座衆帳:ざしゅうちょう:」は建久7(1196)年の「一番行西、貞常」から慶応2(1866)年まで670年間書き継ぎされた13枚3巻があり現在も継承されています。
ほかにも応安2(1369)年以前の祭礼や神饌:しんせん:物を記録した「経営古記」、文安元(1444)年、法楽寺と本社の縁起や祭礼を整理した「座衆経営録」、永正元(1504)年の「下田法楽寺座法則:ほっそく:次第」、「鹿島宮法則次第」の各一巻などで構成されています。
また、宮座の伝統的行事として「渡御行事」(市指定文化財)があります。
毎年1月26日、10人衆が輪番する頭屋:とや:宅に鹿島大明神の御神霊を奉迎する行事で、中世に成立した宮座の祭礼が連綿と受け継がれており、市内でも最も古くから行われている行事です。
香芝市教育委員会
※補足※
平治の乱は1159年(平治元年)12月、源義朝や鎌田政清たちが討たれたのが1160(平治2年)1月。
解説通り、鎌田政光により勧請されたのが承安2(1172)年3月とすると平治の乱から約12年も経っています。
それまで源氏再興を願って力を蓄えつつ、隠れていたのでしょうか。
ちなみに承安2(1172)年は平徳子が高倉天皇の中宮となった年です。
お参り。
残念ながら流水ではありませんでした…
御守りも色々。
なかなか楽しい「鹿顔絵馬」
かなり薄れていました。
本殿にも由緒が。
社務所前は花が多く、手入れが行き届いている印象です。
社務所前の碑。
駅から徒歩5分ほどですが、静かで参拝者もなくゆっくりお参りできました。
②JR「香芝」駅から西へ徒歩5分
近鉄電車だと駅を出て正面に木々が見えるのでわかりやすいです。
参道は右側の建物の先です。