正式にはそれぞれ
鳥羽天皇皇女 尊称皇后統子内親王 花園東陵
鳥羽天皇皇后璋子 花園西陵
です。
藤原璋子(しょうし/たまこ)は7歳のころ父と死別し、祇園女御、白河天皇の養女に。それから約10年後、白河天皇の孫・鳥羽天皇の中宮となり、崇徳天皇や後白河天皇、統子内親王など7人の母となりました。
この母娘の陵はごく近い場所にあります。
雑ですが地図作りました。オレンジ色の矢印の方向からお参りできます。
統子内親王(上西門院)は後白河天皇の姉で仲が良かったようです。
統子に仕えた人々は歴史上、名が知られている人が多く平滋子(建春門院)もその一人。その縁もあってか平滋子は後白河天皇の女御となりました。
また平通盛の妻となった小宰相も仕えており、統子が2人の仲を取りもった話が個人的には好きです。
64歳で逝去し、鳥羽天皇皇女 尊称皇后統子内親王 花園東陵が築かれました。
花園駅から徒歩5分ほどの住宅街で行きやすい場所です。
近づけるのは階段の上までです。
この統子内親王の母・藤原璋子はここからちょうど西の方角に御陵がありますが、住宅地をぐるっと周る必要があります(徒歩約5分)
再度地図を載せておきます。
成長した璋子は養父の白河天皇とは愛人関係となっていました。
白河天皇は最初、璋子を藤原忠通に嫁がせようとしていましたが、璋子はなにかと男性との噂が多く藤原忠通の父・藤原忠実が反対し実現しませんでした。
そして白河天皇の孫の鳥羽天皇の中宮となりましたが、第一子の崇徳天皇は白河天皇と璋子の子供と云われています。そのせいで鳥羽天皇は崇徳天皇を忌み嫌い、崇徳天皇は不遇という言葉では言い表せられない人生を送る結果となりました。
また璋子においても鳥羽天皇の気持ちが若い藤原得子(美福門院)に向いたことや白河天皇が崩御したことで後ろ盾を失い45歳でこの世を去りました。
細い道路の奥に見えるのが出入口です。
道なりに歩いているとまず見えてくるのが「仁和寺宮墓地」へ続く扉ですが閉ざされていました。
上記の写真を右へ進むと待賢門院陵です。
また、隣接する法金剛院は璋子が再建し、待賢門院桜と呼ばれる桜も植えられている他、蓮の季節もおすすめです。
一度に多数の史蹟巡りができる地域です。