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石橋山古戦場<神奈川県小田原市>

物悲しい

伊豆に流されていた源頼朝が20年の時を経て34歳で挙兵。
伊豆で目代の山木兼隆を襲撃し、鎌倉を目指す頼朝。

その途中、石橋山で平家方の大庭景親や伊東祐親軍と戦い源頼朝軍が敗北したいくさです。

大庭景親軍は3000騎は東から、伊東祐親軍は300騎で頼朝の後を追うように西から、頼朝軍を挟み撃ちにする形でした。

対する頼朝軍はわずか300騎。しかも頼りの援軍である三浦半島などで大きな勢力をもつ三浦義明軍は遠い上に大雨で未到着。
頼朝は逃れることが来ましたが、頼朝軍の佐奈田与一やその家臣の文三家安たちが命を落としました。

大まかに進軍図作ってみました。
赤が平家方、青が頼朝方。
大まかに

石橋山古戦場の見どころは4箇所。駅からは遠いですが、この4箇所は近接しています。
①石橋山古戦場碑
②佐奈田霊社(佐奈田与一を祀る)
③ねじり畑
④文三堂(文三家安を祀る:ぶんぞうどう:)

位置関係(この地図は上が西です)
案内図

全体

①碑

小田原駅や早川駅方面から135号線を南へ石橋山古戦場を目指すと分岐路に下記の写真が見えました。
IMG_7353

そして佐奈田霊社を目指していると先ず見えてくるのが石橋山古戦場の碑です。
農道

小雨の日

私が訪れたのは小雨の日でした。吾妻鏡によると石橋山合戦当日は雨だったようですので雰囲気でてる!と前向きにとらえました。
源頼朝と大庭景親が戦った

ここはこれだけですので次へ進みます。

②佐奈田霊社

右手が駐車場

解説板より
■石橋山古戦場と佐奈田霊社

この附近は、源頼朝が治承4年(1180)以仁王の遺命を受けて平家追討の挙兵をした処である。

このとき、相模の名族三浦党の岡崎四郎義実や、その子・真田(佐奈田)与一義忠も参陣した。
しかし、急の挙兵のため、頼朝軍は僅か300であり、攻撃の平家軍は大庭景親以下3000であったため頼朝軍は忽ち苦戦となった。

このとき佐奈田与一は、15騎で豪雄・俣野五郎の75騎と戦い、両将組討ちとなったが与一が勝ったか俣野は組み敷かれ、与一はこれを討ち取ろうとしたが刃に付いた血が固まり短刀がさやから抜けず手間取ったうちに駆けつけた敵のため25才の命を花と散らした。

与一の郎党・文三家安は、主の討死を聞き群がる敵中に飛び入り主人の跡を追い討死した。この後、討死の地には与一塚が建てられ与一を祭神とする佐奈田霊社が祀られた。

また、その先100mの処には、文三を祭る文三堂があるが共に今日 県指定史跡となっている。

霊社下の畑は、組討した処と伝えられねじり畑と呼ぶが、このためかこの畑の作物はすべてねじれてしまうとも伝えられる。

頼朝は、建久元年(1190)伊豆山権現参詣の帰途両墓を訪れ、無き両人の忠節をしのび涙を流したと伝えられる。

佐奈田与一義忠

屋根の手前に碑

樹齢は?

立派な石

本堂?

昭和44年なのでかなり読みにくくなっています。
かすれている

次は文三堂へ向かいますが、途中にもう一つの見どころがあります。
矢印の通りへ

③ねじり畑

みかんの季節

『佐奈田与一義忠討死の地(ねじり畑)』
治承4年(1180)8月23日、佐奈田与一義忠は、敵の豪将・俣野五郎景久を組み伏せたが、駆けつけた敵方・長尾新六に首を切られ、この地で討死にしたと伝えられる。

討死の地
この付近の作物は全てねじれるそうですが木の幹は見えずでした。ねじれてる??

標識を参考に次は文三堂へ。
ここ

④文三堂:ぶんぞうどう:

階段

佐奈田与一の家臣で文三家康豊三家安などと表記されることがあります。

ここは説明なし。
下記は佐奈田霊社に設置されている解説板ですが、文三堂についても書かれています。

解説板より
■神奈川県指定史跡
石橋山古戦場のうち与一塚及び文三堂

石橋山古戦場は、治承4年(1180)8月23日に源頼朝が以仁王の命令(令旨)を受けて挙兵したところです。

ここで、頼朝の軍は平家方の大庭景親、伊東(伊藤)祐親らと戦い敗れましたが、箱根外輪山の複雑な地形と土肥一族や源氏方の人々によって助けられ、落ちのびました。
その後勢力を盛り返し平家を倒し、鎌倉幕府を開くにいたりました。

与一塚と文三堂は、この合戦の際、頼朝方の先陣を命じられて戦死した佐奈田(真田)与一義忠とその家臣・文三(豊三)家康(安)を祀ってあるところです。

佐奈田与一はこの戦いで、大庭景親の弟・俣野五郎景久と一騎討ちになり、景久を組み伏せましたが、刀が抜けず(この前に敵将を討ち取った際、刀を拭わずに鞘に差したため)、敵方の加勢により討ち取られてしまいました。その討ち取られた場所が「ねじり畑」と呼ばれています。

また家臣の文三家康は主人の討死後、敵陣に斬りこみ、8人を討ち取って壮烈な戦死を遂げました。

「吾妻鏡」には、石橋山合戦後の建久元年(1190)に頼朝が伊豆山権現参詣の帰り、佐奈田与一と文三家康の墓を訪れ落涙したと記されているので、戦死後まもなく墓が築かれたようです。
その後、佐奈田与一は神霊として佐奈田霊社に祀られ、現在も信仰を集めています。

小田原市教育委員会

県指定史跡

もう少し

説明なし

この後、頼朝は土肥実平らたちの協力により、真鶴から安房へ船で渡り鎌倉へ入ることができました。

石橋山を後にして根府川駅方面へ向かう途中、海が広がっていました。晴れていれば…
曇り

住所
神奈川県小田原市石橋
交通
①JR「早川」駅または「根府川」駅どちらからでも徒歩30~40分

②JR「根府川」駅から箱根登山バス約5分乗車、「石橋」バス停下車徒歩15分で佐奈田霊社
※バスは平日のみ

探訪について
自由
探訪目安時間
40分~
お気に入り度
★★★☆☆
探訪日
2015/02/22
備考
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