木曽義仲の乳母子:めのとご:である今井四郎兼平は仁平2(1152)年生まれ(平知盛と同い年 ← 平家目線)
兄の樋口兼光や妹の巴と共に義仲挙兵に従い共に戦い抜いてきました。
今井兼平は、源(木曽)義仲の腹心の武将。
寿永3年(1184)正月、源義経、範頼の軍と近江の粟津で戦い、討死した義仲のあとを追って自害した。
その最期は、口に刀をふくんで馬から飛びおりるという壮絶なものであった。
寛文元年(1161)、膳所藩主本田俊次は今井兼平の戦死の地をもとめ、中庄の墨黒谷(篠津川の上流)に墓碑を建立して、兼平の義勇をたたえた。
墨黒谷には、兼平の塚があったといわれその塚のところに建碑したのであった。
その後、寛文6年(1166)、次代の藩主康将のとき、参拝の便を考えて、東海道の粟津の松並木に近い現在地に兼平の墓を移設したという。
碑は、明治44年、その兼平の墓を再改修したときのものである。
碑文によれば、滋賀県知事 川島純幹、膳所町長 馬杉庄平、兼平の末裔で信州諏訪の人 今井千壽らが発起して、旧跡の規模を拡張し、その参道を改修したものという。
この解説は墓の入口手前の川沿いに建てられています。
今井兼平は瀬田(琵琶湖の南端)で源範頼軍と、宇治川では根井行親:ねのいゆきちか:・楯親忠:たてちかただ:が源義経軍と対峙。
根井行親と楯親忠は討取られ、今井兼平が戦う瀬田も突破されました。
京にいた木曽義仲は後白河法皇を連れ北陸へ落ちようとしたが入京した義経軍に攻められ、瀬田へ向かわせた今井兼平のことが気になり瀬田へ向かいます。
兼平も義仲を探しに京へ向かい、粟津で2人は落ち合うことができました。
乳母子との絆は深く、幼少の頃より義仲と兼平は死ぬときは同じと決めていたからです。
平家物語の木曽最期によると、この時300騎の義仲軍は最後の戦いと、近くにいた一条次郎忠頼6000騎に挑み、義仲軍は5騎にまでなってしまいました。
その中の1人が義仲の愛妾・巴御前。
義仲に落ち延びることを促されますが当然納得することもなく、仕方なく御田の八郎師重30騎に駆け入り馬から落し首をねじ切ってから落ちて行きました。
兼平はどこかの郎等に討ち取られるよりもと、義仲に自害を勧め時間稼ぎをする兼平。
義仲も自害する覚悟でしたが、馬が深田にはまり動けなくなったところを矢で射られ、首を取られました。
義仲が討たれたのを知った兼平は切先を加え、馬から飛び降りて壮絶な最期を見せつけてくれました。
自害を勧める前、義仲が「いつもは何とも思わない鎧が今日は重くなった」と弱気を見せたのも兼平だからこそだったのでしょう。
地図は下記に貼りましたが、石山駅から北西へ歩くと墓の案内標識が見えます。
住宅に囲まれ、一見公園のように見えないこともないこの奥に兼平の墓があります。
左手には兼平の墓についての説明。
大津市の指定文化財になっているそうです。このことについては義仲寺を参拝した際に2006年の新聞のコピーをいただきました。
徒歩1分もしないうちに墓が見えてきます。
何度か訪れていますが、いくら頑張っても「今井四郎」までしか見えないのです。
入口に書かれている「兼平庵」はこの写真のすぐ右手の建物で、右側に写っているのがその手すりです。
公民館のような?何に使用されているのか未確認です。
北へ4km弱、木曽義仲の墓がある「義仲寺」と併せてお参りされてはいかがでしょうか。
お参りの後は京阪電車へ引き返し、坂本比叡山口・近江神宮前方面の電車で3駅目の「中ノ庄」駅下車、北へ徒歩3分ほどの『亀屋廣房』さんで販売されている兼平餅がオススメです。
亀屋廣房ホームページ↓
http://www.biwacity.com/kame1623/order/genre/584
ホームページには要予約となっていますが、2021年12月31日現在は予約不要ということでした。