寿永3年(1184)2月7日一ノ谷合戦。
この戦で経正、経俊、敦盛、通盛、業盛、知章、忠度など多くの平家一門が討ち取られました。
約半年前の寿永2年(1183)7月25日に平家は天皇の正当な証とされる三種の神器とともに安徳天皇を奉じて西海を目指し都落ちしましたが、福原まで勢力を盛り返すほどになっていました。
後白河法皇は1月下旬ころ、平家には和平交渉の使者を遣わすから合戦はしないよう源氏にも伝えていると、戦わせないように命を下す一方、1月26日には源頼朝に平家追討の宣旨を出し、源範頼、義経軍が出陣しました。
つまり平家は騙し討ちにあったのです。
激戦地とされる場所には『源平史蹟 戦の濱』碑が建てられいます。
■一の谷と戦の濱
「一の谷」は鉄拐山と高倉山との間から流れ出た渓流にそう地域で、この公園の東の境界にあたる。
1184年(寿永3年)2月7日の源平の戦いでは、平氏の陣があったといわれ、この谷を200mあまりさかのぼると二つに分かれ、東の一の谷 本流に対して、西の谷を 赤旗の谷 と呼び、平家の赤旗で満りていた谷だと伝えられている。
一の谷から西一帯の海岸は、「戦の濱」といわれ、毎年2月7日の夜明けには松風と波音のなかに軍馬の嘶く声が聞こえたとも伝えられ、ここが源平の戦のなかでも特筆される激戦の地であったことが偲ばれる。
須磨浦通6丁目自治会
戦の濱碑から北へ、少し高い場所から須磨の海が見渡せます。
800年以上前を想像しながら…赤旗を靡かせる数々の軍船。
安徳天皇の御在所でもあり、二位の尼(平時子)や宗盛などが停泊していました。
源義経軍による「鵯越の坂落し」と呼ばれる険しい山側から馬で平家の陣に突入した奇襲により平家は大混乱。
沖合の船めがけて退陣しますが、途中で討ち取られる者、船に乗れずに命を落とす者など想像を絶する凄惨な光景が広がっていたと思われます。
須磨浦公園駅から東へ徒歩2分ほどの場所には800年記念も。
現代の暦で3月下旬~4月上旬は桜が美しく須磨浦一帯の桜は敦盛桜と呼ばれています。
平家目線だと涙なしにはいられない一ノ谷合戦ですが、現代では桜に包まれながら散策するのはいかがでしょうか。
②JR「須磨」駅から西へ徒歩12分
西へ徒歩15分ほどで敦盛塚です。