平清盛の側室となった絶世の美女・常盤御前。
この2人の間に誕生した天女姫を祀るのが疱瘡神社:ほうそうじんじゃ:です。
先ずは向洋駅から徒歩10分ほどの所にある堀越公園へ。
ここに注目!!
『平清盛ゆかりの地 天女姫伝説巡り』
イラストとともに解説が。
部分的に載せましたので、全容は現地でご確認ください。
↑この解説の通り「堀越」
■堀越公園
堀越公園から徒歩1分ほどで本川井戸に到着です。
平清盛は、その娘・天女姫が宮島で亡くなり(1179年)その亡き骸を祀るため堀越の丘に疱瘡神社を建てました。
そしてその神社が狐や狸に荒らされる事を気遣って、全国から大勢の作業者をあつめ、堀越の山の一部を掘り切って、そこに海水を引き込み、神社のある丘を島にするという大工事を行いました。
この本川井戸はその時に作業者たちの飲み水として使うために、掘られたものであるといわれています。
■本川井戸
近くに「阿弥陀井戸」へも。
↓堀越公園の解説にも載っています。
ここから疱瘡神社まで5分ほどです。
細い道をどんどん進みます。
この階段の上が疱瘡神社です。
到着しました!!
解説や漫画などで疱瘡神社について知ることができます。
源義朝の死後、その側室であった常盤御前は3人の子どもを連れて平清盛の所へ助命嘆願に行きました。
そしてその後に生まれたのが『天女姫』であり、従って源義経とは異父同腹の兄妹です。
姫はその名の通り天女にも似た美女でしたが、不幸にも疱瘡病(天然痘)という病気に罹り、清盛は全国の名医を集めて治療に専念いたしました。
しかし病は容易に癒えず、「この上は平家の守り神である厳島明神の力におすがりする外ない」と治承3年(1179)2月上旬に、姫を船に乗せ沢山の女官・従者を従えて、海路26日宮島に参着し、祈願の後帰路に就きましたが、急に病状が悪化し2月29日に姫は14才を一期に息を引き取りました。
清盛は止む無くその遺骸を埋葬すべき所を神に伺ったところ「これより東方七里、赤旗の建っている場所こそ埋葬の地である」とのお告げに従い、遺骸を船に乗せ東方向灘の浦まで漕ぎ来ると、まさしく赤旗の建っている丘があり「ここぞその場所」と考え、金銀十二枚、手玉七つ、玩具類七個と、姫が肌身離さず持っていた一寸八分の黄金仏などを副葬品として埋めて、そのしるしに『せんだんの木』を植えておきました。
そして、その場所から東方八間の所に四間四方のお堂を建てて、本尊に阿弥陀如来を祀り、その脇に十二単で身を飾った姫14歳の立ち姿の木像を置き、入魂の秘法を行い本尊に配し祀ったと古い言い伝えにあります。
その場所が昔からこの場所と伝えられています。
平成18年4月吉日
天女姫の生涯が描かれています。
一部です。全体はぜひ現地でご覧ください。
天女姫の父は平清盛。母は清盛の側室となった常盤御前。
常盤御前は元は源義朝の側室で今若、乙若、牛若の3人の子供がいました。
平治の乱で義朝が討たれ、義朝の子供たちは処刑されたり流罪なったりしましたが今若、乙若、牛若は常盤御前が助命を願い出たことで子どもたちは出家、常盤御前は清盛の側室となることを条件に許されました。
牛若(源義経)とは異父きょうだいです。
その後、常盤御前は一条長成に嫁ぎ一条能成が産まれたのが1163年ころです。
天女姫が亡くなったのが14歳、1179年と書かれていますので天女姫は1165~1166年ころの誕生ということになりますね。あれ???
どこまで史実でどこからが伝説かは不明ですが、この地域に伝わる清盛ゆかりの地として疱瘡神社は祀られています。
↓堀越公園の解説の「月見山」は地元の方にうかがったところ宅地開発でかなり削られたそうです…