方丈記の著書・鴨長明。
父は賀茂社(下鴨神社)の摂社である河合の祢宜・長継。長明も神職に就くつもりが叶わず出家。
移動可能な庵で過去に起きた安元の大火や福原遷都、大地震などとともに世の無常を綴った『方丈記』を完成させました。
■方丈の庵跡
方丈石はこの下の巨石と云われる。
ここは鴨長明が方一丈(3メートル強)の小庵を営み「方丈記」を著した場所と伝えられている。
長明の祖父は賀茂社の氏人で、父はその摂社河合の祢宜であった。
父・長継の次男として仁平3年(1153)、一説に久寿2年(1155)に生まれた長明は19歳で父に死別した。
彼は社司を志すかたわら琵琶を中原有安に学び、和歌を俊惠法師に学んだ。
33歳のとき「千載和歌集」に一首入選花壇に認められ、47歳のとき、和歌所寄人となり宮廷歌人として活躍、「新古今和歌集」に十首入選した。
しかし、社司の継承に失意した彼は元久元年(1204年)出家し洛北大原に隠棲して4年を過ごし、建暦元年(1211年)日野に移り(一時鎌倉に行くが)草庵を結び、「方丈記」を著わした。
鎌倉時代の変革期に末流貴族の子弟として自己と自己の生活を照破する文学を結実させた「方丈記」は鎌倉文化発展の序曲(日本古典文学大系)と云われ、文学史上不可欠の意義を有している。建保4年(1216)閏6月8日没した。
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日野は平重衡の正妻・輔子が姉の元に身を寄せていた付近で、近くには重衡を荼毘にふしたと平家物語に名が見える法界寺があります。
法界寺から東方向の山中に方丈石(方丈の庵跡)が整備されています。
まずは日野野外活動施設を目印に、さらに東へ進み下記の写真の場所から山道へと入ります。
方丈石に到着!!ここまで山道を20分ほど歩きました。
人間が歩けるようになっていますが、現代でも山道。平安末期~鎌倉時代はどのような場所で、長明はどんな思いでこの地を選んだのでしょうか。
さらに上に続く道を進むと……
冒頭に載せた鴨長明の説明石が。
右側の縦長の石の裏側の文字は何と書いてあるか読めませんでした…
訪れたときは他に年配の夫婦と思われる方が見学されていて、私たちを見て「やっぱりこういうのが好きな人がいるのね」とおっしゃていましたが、寂しい場所のためできれば複数人で昼間に探訪する方がいいと思う場所でした。
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