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宝地院<兵庫県神戸市>

神戸の宝地院

もとは平頼盛の山荘で、後に安徳天皇を弔う宝地院が建立されました。
福原遷都の時には安徳天皇や高倉上皇の行在所となった場所です。

住所
兵庫県神戸市兵庫区荒田町3-17-1
交通
①「高速神戸」駅、JR「神戸」駅、地下鉄「ハーバーランド」駅から徒歩15~20分
②神戸駅から市バス約7分「大学病院前」バス停から徒歩3分

参拝について
保育園併設のため参拝はインターホンを鳴らす
参拝目安時間
15分~
お気に入り度
★★★★★
参拝日
2018/11/04他
公式ホームページ
解説板より
安徳天皇の御菩提を弔うため弘安2年(A.D1279年)に創建さる。
当寺域は平頼盛の山荘にして治承4年6月3日安徳天皇入御あり。
高倉上皇は雪の御所に入御ありしが御所を替わり給い高倉上皇も6月4日より其年10月までこの山荘に居給いしなり。

縁起

バス通りから住宅街に入り数メートル先に宝地院保育園が見えてきます。
保育園

宝地院

保育園併設のため普段は門は閉まっていますが、訪れた日は兵庫区平野の 「平清盛生誕900歳年記念イベント」 が開催、スタンプラリーの設置場所で解放されていました!!

以下、ご住職にうかがったお話しを元にまとめました。

頼盛の山荘跡に安徳天皇が祀られている理由

先ずは安徳天皇と頼盛の関係。

平頼盛系図

安徳天皇からみて頼盛は祖父の弟。なぜ清盛邸ではなく頼盛の山荘跡に??
「平頼盛」「池禅尼」「源頼朝」の関係性と時代背景に注目して進めていきます。

平頼盛は清盛の異母弟で母は忠盛の正室・池禅尼(藤原宗子)。

頼盛が28歳前後のとき平治の乱が勃発、藤原頼信と手を組んだ源氏側の敗北。当時13歳の源頼朝は逃亡中に父・義朝とはぐれ、平家の追っ手に捕らえられました。
清盛は頼朝を処刑する気でしたが、継母の池禅尼が早くに亡くなった息子・家盛(頼盛の兄)に似ているからと断食までして必死に頼朝の助命を願い出ました。

そのおかげで頼朝は伊豆に流罪となり、34歳の時にあることがきっかけで挙兵、鎌倉を拠点とし壇ノ浦合戦では差し向けた弟・義経の卑怯な手段で平家を敗りました。
頼朝は平家残党狩りを行う一方で池禅尼への恩を忘れることなく、池禅尼の子供や孫は優遇し続け建久10年(1199)に亡くなっています。

そして弘安の頃(1200年代後半)になって、中国大陸からやってきた元の攻撃を受けつつも何とか元を撤退させることが出来ました。
この時代、良くないことが起こるのは怨霊の仕業だと信じられており、不運で亡くなった人や非業の最期を遂げた人を後から祀ることはよくありました。

その考えで不幸な幼帝・安徳天皇を祀ることになり、清盛邸ではなく源氏からも優遇されていた頼盛の山荘に宝地院を建て、菩提寺としました。
壇ノ浦合戦より約100年後のことです。

玉葉などによると安徳天皇は「行方不明」とされており、宝地院の縁起にも知盛が壇ノ浦合戦前夜に安徳天皇を逃したとあり、平家再興への思いがあったのではと云われています。
安徳天皇の潜幸や御陵地は全国各地に存在し、対馬の下県郡久根田舎村では安徳天皇は74歳崩御し山稜見込地と定められ、宝地院ではこの説をとっているというご住職のお話しでした。

本堂には安徳天皇の位牌の他、法然上人像と善導大師の像が祀られています。

宝地院は浄土宗。
善導大師の教えをもとに法然上人が浄土宗を開いたと云われており、法然上人像のある場所には善導大師の像も一緒にあることが多いです。

本堂

本堂装飾

平野には他にも平家ゆかりの地が複数あり、平清盛像はなんと二体もある町全体で平家を大事にしている場所です(^-^)
清盛銅像

ゆかりの地を巡りながら平野商店街で買い物をしたり平清盛も通ったであろう、湊山温泉の湯に浸かるのもオススメです!
平清盛ゆかりの温泉

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