壇ノ浦合戦で入水したとされる平教盛(たいらののりもり、平清盛の弟)。
香美町御崎地区に伝わる平家落人伝説では教盛は家長、盛嗣、忠光の他、息子・通盛の妻の小宰相とともに壇ノ浦から但馬に漂着、食糧も水も乏しかったこの地で命をつないできました。
右上の写真は平家再興を願って続けられている百手の儀式。
2020年1月28日の百手の儀式レポートとともに綴ります。
■目次(各項目をクリックするとページ内リンクします)
・史跡 平家村御崎の碑
・平内神社
・百手の儀式
・道の駅あまるべ
・空の駅 余部クリスタルタワー
・香美町香住観光協会
上記の写真はバス停側から撮影しました。
バスはJR 香住、鎧、餘部の各駅から、香美町民バス香住御崎線「御崎」下車。
■平家伝説
当地、御崎は余部から険しい山道づたいに約4キロ、日本海に突き出た岬の突端にある平家集落である。
かつては、食物や飲用水にもこと欠くような、文字通り陸の孤島であった。
平家伝説の地は、ほとんど全国にまたがって各地に分布している。 但馬地方にも古くから平家の里と良い伝えられて来たところが数多くあるが、とりわけ「御崎の平家伝説」は有名である。
「平家物語」の中ではすでに死んだことになっている人たちの生存説が極めて多い。
壇ノ浦の合戦(寿永4年、1185年3月)に敗れた平家の武将達は、海路隠岐・対馬へ逃れようと壇ノ浦から漕ぎ進めたが、日本海に出てから強いシケに遭い、因幡と但馬の海岸へ押し流されてしまった。
この御崎には、平家の一門の内、門脇宰相教盛を大将とし、幼帝安徳天皇の衛士の大将 伊賀平内左衛門家長、その子光長、矢引六郎右衛門、小宰相局など一行7人が命からがら漂着したのは、寿永4年4月5日のことであった。
一行が御崎のある伊笹岬の沖にさしかかると一条の煙が見え船戸に漕ぎ付け、それを頼りに崖をよじ登って行くと、小さな庵に高野聖の森本浄実坊という修験者がいて、一行は小麦の蒸し物をクズの葉にのせて施され、飢えをしのいだ。
それが、今日に続く「小麦祭り」(日吉神社)の起源である。
浄実坊の勧めに従って土着し、平家再興を計るため先ず「一の谷」奥に門脇宰相が居を構え、2キロほど東西へ隔て、東の方に伊賀平内左衛門、西の方に矢引六郎右衛門が居を構え、追っ手に備えたと伝えられている。
毎年1月28日に氏神の平内神社の境内で行われる「百手:ももて:の儀式」は、平家再興の願いを込め、源氏に見立てた的に101本の矢を射る新年の武芸始めの儀式として、代々受け継がれてきた伝統行事である。
集落の入口に俊龍大和尚の碑がある。
和尚は、諸寄の龍満寺で得度したこの地出身の高名な禅僧で、時の大老井伊直弼に師と仰がれ、万延6年3月、桜田門外の変で暗殺された大老の葬儀では、導師を勤めた人である。
■矢引俊龍和尚:やびきしゅんりゅうおしょう:(井伊大老の導師)生誕の地
和尚は、寛政元年(1788)、平家落人 矢引六郎正固の子孫の1人としてこの地に誕生しました。
10歳の時 浜坂町諸寄 龍満寺で得度し、その後、愛知県足助町香積寺の住職となり禅僧として名声が高く、学徳も高く評価されていました。
時に、嘉永6年(1853)鎖国を続けていた徳川幕府にアメリカの使節ペリー提督が来日して開港和親を迫りました。
国内の情勢は鎖国を続けるか、開国するかで揺れ動いていました。
時の大老井伊直弼は事態の解決に悩み、幼少の頃より禅の修行を受けていた和尚に教えを乞いました。
俊龍和尚は国内の情勢をよく見通し、鎖国を続けている事態ではないことを教示し、開国通商することを説き、品川東海寺で日米通商条約を調印するよう導きました。
和尚は自ら会議に参列し、通訳の任務にも就いたと伝えられています。
万延元年(1860)、井伊大老は登城途中桜田門外で水戸浪士の凶刃に倒れました。
大老の葬儀の導師は和尚がつとめたことは勿論ですが、その後、江戸を去り井伊家菩提所彦根清涼寺の住職を勤めました。
駐車場の階段付近の目立たないところにこの地で最も古い石が置かれています。
■平家村の碑
香美町立余部小学校 御崎分校近くの『平家の里』というお蕎麦屋さん。
お店の方が落人伝説を語り継がれてきて、2012年には神戸の能福寺で「平家村のおはなし講演会」をされたことがありましたが、2019年に亡くなられたと観光協会の方から伺いました。
そしてお店も2018年頃に閉店、しかし建物は残っていました。
食べてみたかった…
この地でしか育たないという「平家蕪:へいけかぶら:」
教盛一行が落ち延びてきたものの食料に乏しく、祈ったところこの蕪が育ち、この地で生き延びることができたと伝わっています。
現在はあちこちに生えていて、春には黄色い花が咲きカメラマンが多数訪れるそうですが、1月でも咲いているのをみかけました!!
教盛一行を支えた蕪、出会えて良かったです。
正式名称は「ひらうちじんじゃ」、通称「へいないじんじゃ」。
地元の方は皆さん「へいないじんじゃ」と呼んでいると観光協会の方に教えていただきました。
伊賀平内左衛門家長(いがのへいないざえもん いえなが 平知盛の乳兄弟)を祀り、また平教盛と小宰相の墓も建てられています。
②JR 香住、鎧、餘部の各駅から、香美町民バス香住御崎線「御崎」バス停下車徒歩10分
※バスは土日祝運休
※時刻、路線図などは香美町ホームページに↓
https://www.town.mikata-kami.lg.jp/www/contents/1222229169390/
※時刻表は「配付用(香住区)」を参照
駐車場から平内神社まで徒歩約10分です。
消防具格納庫、公民館の横を通り、車が通れない程度の幅の坂道を上がっていきます。
日本海が見える
この先は視界が開けます。
鹿よけ?の網
途中、平教盛、小宰相の墓へ続く分かれ道がありますが、先に平内神社へ向かいます。
到着!ここが平内神社
お参りはこちら
これは?
平内神社のむかいには山椒の木が何本もあり、鹿などの糞を多数みかけました。遭遇はしませんでしたが、参拝の際はお気をつけください。
途中まで引き返し、平教盛、小宰相の墓へお参りします。
見晴らしの良い場所に建てられています。
狭い場所のため、正面からの全体写真は難しいです。
もう一度系図で確認。
小宰相:こざいしょう:は教盛の息子・通盛の妻
「門脇宰相平教盛卿之墓」従三位権中納言 兼 肥前守
教盛は六波羅の総門の脇に屋敷があったため「門脇宰相」や「門脇殿」と呼ばれました。
その横には教盛が忠盛の子供であること、昇進、壇ノ浦合戦に出陣したことなどが書かれていますが、一言一句読み取るのは困難でした。
裏面の文字はほぼ読めますので文字起こししました。
教盛の孫にあたる通家のことが。
瀬戸ヨリ夜、船出シ流サレテ、帝ハ因州加露ニ御上陸ト伝ワル。当村ニハ教盛卿ト嫡子越前三位、通盛卿ノ内室 小宰相局●●子 通家、外ニ侍大将郎黨等 余多上陸シ、高野聖ノ修験者 森本浄実坊ヲ頼ミ此ノ地ニ潜●天命ヲ終ルト伝フ
此処ニ一族ノ墓ヲ建立シ霊ヲ祀ル
嫡流 門脇清忠識
その横、一段低い所にあるのが小宰相局とその子・門脇 平通家の墓です。
平家物語によると小宰相は一ノ谷合戦前夜に夫・通盛にお腹に子供がいることを打ち明け、通盛はたいそう喜びました。
翌日の合戦で通盛が討ち取られたことを知らされ最初は信じることができませんでしたが、屋島へ向かう船から小宰相は入水。
船頭が気付き、急いで引き揚げられましたが、息を引きとった後でした。
通盛の鎧を着せ、小宰相はお腹の子とともに海中へ沈められました。
ところが香美町に伝わるお話では小宰相は一ノ谷合戦の後も入水せず、舅の教盛と一緒に落ち延び子供を育てていたんですね。
さて、この平内神社では平家再興を願う行事『百手の儀式:ももてのぎしき:』が行われているということで、見に行ってきました。
毎年1月28日、15時半頃から(※2020年1月現在。念のために観光協会などにご確認ください)平内神社で催されています。
出発地点から平内神社まで蝶紋の幟!!!
ステキな光景…
束で置かれているところが開始地点です。
15時半から「ひかえ、ひかえ、わきによれ~」の声とともに平内神社まで練り歩きです。
お参りをして、百手の儀式の始まりです。
2020年は百手の儀式が初の3名。
基本的に中学生が担いますが、該当者がいない場合は大人が弓を引く年もあるそうです。
香美町のホームページによると落ち延びてきた平教盛(門脇宰相)、伊賀平内左衛門家長、矢引六郎右衛門の3名に扮しています。
101本の矢が、源氏に見立てた的めがけて放たれました!!
以前の的は目が描かれていたそうです。
蝶紋、やっぱりいいですね。
後ろで「矢持ち」をしているのは未来の射手。
儀式終了後に、練習するそうです。
こうして受け継がれているんですね(^-^)
最後に締めてお開き。
練り歩きから約1時間で全て終了。
赤飯が灯籠に直に置かれてました(^^;
矢は持って帰って良いそうです!!
先端が尖っていて、弓がなくても源氏と戦えそうです(^^*))
だいたい108cm。
持ち帰りたい場合は包む紙や袋などの準備をオススメします。
新聞紙との比較。
※追記※
2023年の関西 NEWS WEBで『兵庫 香美町 平家ゆかりの伝統行事「百手の儀式」受け継ぐ』が報道されました。
https://www3.nhk.or.jp/kansai-news/20230208/2000070867.html
平家再興を願う行事「百手の儀式」
過疎化で担い手不足の中どのよう受け継ぐか、心にしみる内容です
※追記ここまで※
着替えなどは公民館で行われていて、お手洗いも貸していただけました。
早目に到着すると消防具格納庫付近で弓矢を準備されていました。
その脇には教盛たちを助けた森本浄実坊、森本家の由来が書かれています。
森本家ノ由来
森本家ノ祖ハ当村 伊楽神社現美伊神社ノ修験者ニシテ浄実坊ト●●●今ヲ去ル八百年前 寿永四年平家一門壇ノ浦デ源氏ト合戦シ●時ニ門脇宰相平教盛卿ヲ始メ徒大将郎●●カ落チ来ル
浄実坊ハ小麦ノ蒸シタルヲ与ヘテ之ヲ救ノ共ニ居●而シテ当村ヲ平家部落ト呼ブ
森本家ノ子孫ハ今ニ存続シテ尼崎市ニ居住シ分家ハ鳥取市に居住ス
※●は読めません
雨が急に降ったりする天候でしたが、貴重な体験ができました。
ありがとうございました。
空の駅 駅長・亀のそらちゃんの時計があり、1時間ごとに歌が流れて面白いです♪
(約43秒)
駅長・そらちゃんについてはこちら↓
http://michinoeki-amarube.com/station_master/
駐車場の壁に見どころが掲載されています。
後述するクリスタルタワーのエレベーターを通り過ぎると公園のような一角に空の駅 駅長・亀の・そらちゃんのおうちがあります。
お散歩時間が決まっていて、運良く会えました♪
寒い時期はこの状態ですが、夏場は元気に公園のあたりを歩くそうです。
顔出し記念撮影も色々。
お腹の部分から顔を出せます(笑)
ガシラ(学名:カサゴ)余部周辺の方言でアナカーとも呼ばれるなど、後ろの説明にも注目。
「ま~イ~カ!!」(笑)
頭の部分が顔出し(^^*))
かなり写実的(^^;
香美超戦隊オジレンジャーGEO♪
オジレンジャーは香美町商工会のホームページに香美町観光PR動画がのっています↓
http://www.coming-kamichou.com/
もちろん食事も。
道の駅あまるべ定食(1100円)をいただきました(^^♪
↓その他も美味しそうなメニューばかり!
http://michinoeki-amarube.com/menu/
次に道の駅に隣接している「余部鉄橋 空の駅展望施設」へ。
余部クリスタルタワー(エレベーターの愛称)で地上約40mの高さまでエレベーターで!!
余部鉄橋は平成22年8月にコンクリート橋に付け替えられ、橋脚は保存されたことなどの説明。
日本海が見渡せる展望台。
一部、足元が見えるようになっています…
ライブカメラも設置されています(^^)/
↓ライブカメラの映像
https://www.town.mikata-kami.lg.jp/www/contents/1572410821242/index.html
香住駅前の香美町香住観光協会(http://kasumi-kanko.com/)。
2020年1月現在は仮のプレハブです。
レンタサイクルも。
周辺のお食事処地図や但馬平家落人伝説の資料などをいただきました。
行事や場所の他、町の人々のことにも精通していて、これぞ地元密着の観光案内!!と言った感じで頼もしいです。
観光地によくある有名な場所しか知らない案内所とは大違い!!
近くに来られた際は立ち寄って情報を集めることをオススメします。
香住駅の屋根にはカニがいましたが、12月に老朽化により撤去されてしまいました…(香美町香住観光協会ブログより→2019年12月10日の記事)
これは撤去数日前の写真です。
香美町香住観光協会はホームページが見やすく、SNSで色々発信されています。
お出掛けの前にぜひご確認ください(^-^)
ホームページ → http://kasumi-kanko.com/
インスタグラム → https://www.instagram.com/kasumi.kanko/
Twitter → https://twitter.com/kasumi_kanko