源氏が挙兵した治承4年(1180)10月、源頼朝率いる源氏軍と平維盛率いる平家軍が対峙。
この時、平家から出陣したのが大将軍・平維盛。副将軍・平忠度。侍大将は伊藤忠清。その他、平知度などです。
平家軍が陣を置いた場所がこの付近と伝わり「平家越:へいけごえ:」の碑が建てられいます。
■略系図
(太枠は富士川合戦に出陣)
平清盛からみて
大将軍・維盛→孫
副将軍・忠度→弟
出陣した知度→息子
です。
平家物語覚一本によると維盛は東国に詳しい斎藤実盛に源氏軍について問います。
実盛は約21年前の平治の乱のとき、源義朝(頼朝の父)軍に所属していました。
義朝が敗れ討たれた後、平家に仕えるようになっていました。
その荒々しさを語る実盛の言葉にすっかり恐れおののいた平家軍は合戦の前夜、一斉に飛び立った水鳥の羽音を源氏の奇襲と勘違いし慌てふためき逃げ去ってしまいました。
そう、平家軍は不戦敗。これに平清盛は大激怒。
侍大将を任せた伊藤忠清は死罪、大将軍の維盛は鬼界が島に流罪とまで言い出しましたが、平家の郎党・平盛国がなんとかなだめ許されました。
維盛は大変美しく、その様は絵に描いても及ばないほどだと平家物語五巻 富士川の段で語られています。
維盛の世代は平家も貴族化していたこともありますが、きっと戦には不向きな性格だったのではないかと勝手に思っています。
しかしながら嫡流として生れたからには出陣しなければならない立場だったのでしょう。
参考までに維盛、忠度、知度の3人が出陣した主な合戦をまとめました。
治承4年 (1180年) |
富士川合戦 源頼朝軍に不戦敗 |
維盛、忠度、知度、他 |
養和元年 (1181年) |
墨俣川合戦 源行家軍に勝利 |
重衡、維盛、忠度、知度、通盛、他 |
寿永2年 (1183年) |
俱利伽羅峠合戦 木曽義仲軍に敗北、知度自刃 |
維盛、忠度、知度、通盛、経正、他 |
※史料により異なる場合があります。
正面から見ると絵図も。
近づいて見ると、源氏軍ばっかり!!平家越なのに…
しかし、雨の日だと悲惨な写真……
■佐々木四郎高綱
■右上に源九郎義経
■源頼朝と千葉常胤
治承4年(1180)10月20日、富士川を挟んで、源氏の軍勢が動くと、近くの沼で眠っていた水鳥が一斉に飛び立ちました。
その羽音に驚いた平家軍は、源氏の夜襲と思い込み、戦いを交えずして西へ逃げ去りました。
源平の雌雄を決めるこの富士川の合戦が行われたのは、この辺りといわれ「平家越」と呼ばれています。
実際には戦っていないのに富士市合戦と呼ばれるのもなんだか……
碑の付け根にも注目。
頃ハ治承四年秋
源氏ノ白旗ガ富士野ニ流レテ貔貅幾万富士川ニ迫ッタ時 平家ノ將率ガ一夜水禽ノ羽音ニ驚キ其赤旗ニ雪ク可ラサル耻ヲ留メタト言ヒ傳フル所
碑の土台の説明もほぼ同じ内容と思われる説明がありました。読めません…
碑の側の川には平家越橋がかかっています。
本吉原駅、吉原本町駅、ジャトコ前駅などから徒歩10分強
「見よう歩こう富士市の東海道」