平治の乱では大内裏や内裏の場所が多数登場します。
平治元年(1159)12月26日には藤原信頼や源義朝がたてこもっていたため、平家が攻め込みます。
大内裏を囲む門は多数ありますが、東側にある門のうちの3つ「陽明門:ようめいもん:」「待賢門:たいけんもん:」「郁芳門:いくほうもん:」で戦いが繰り広げられました。
待賢門を突破した平重盛を見た源義朝が息子・義平に命じて、重盛と義平は紫宸殿で戦いました。
陽明門 | 源光保、源光基 | 平経盛 |
待賢門 | 藤原信頼 | 平重盛 |
郁芳門 | 源義朝 源義平 源朝長 源頼朝 |
平頼盛 |
待賢門跡には碑が建てられています。
『平安京創始待賢門』と刻まれています。
建物と建物の間にひっそりとあり、季節により木で隠れてしまうためかなり目立たない…
右側が全体の様子。前に「日本盲唖教育発祥之地」が建っています。
平治の乱で平重盛、源義平が戦ったのはこの紫宸殿!!
その向かいが「承明門」です。今は住宅が立ち並んでいます。
平治元年12月9日に藤原信頼、源義朝たちが天皇、上皇を幽閉したのが一本御書所です。
平安時代、この附近は天皇の住まいである内裏の東側に当たり、一本御書所があった。
一本御書所は、平安中期の天暦2年(948)頃から『貞信公記(ていしんんこうき)』などの文献に現れ、世間に流布した書籍を各一本(一部)書き写して保管・管理した所で、侍従所の南にあって、公卿別当をもって長官に任じ、その下に預や書手(しょしゅ)などの役があった。
『日本紀略』康保元年(964)10月13日条には、一本御書所で清書した222巻を大蔵省の野御倉に遷納したことが記されている。また平安時代後期には、
鳥羽天皇や崇徳天皇が度々ここに行幸されている。
『平治物語』によると、平治の乱(1159)に際して、藤原信頼らが後白河上皇を一本御書所に押し込めたことが書かれ、つとに有名である。
なお陽明文庫本『宮城図』にはこの付近を御書所と記しているが、『西宮記(さいきゅうき)』によると、内裏外郭北門(朔平門・さくへいもん)西の式乾門(しきけんもん)の内の東掖門には御書所があったとし、天皇の書物等を管理する内御書所は内裏内の承香殿(じょうきょうでん)の東片廂にあったとする。
平安京大内裏、内裏跡は解説板が設置されている場所が複数ありますので、順次追加していきます。