一ノ谷合戦で生田の森の副将だった平重衡は源範頼軍と戦いになりましたが、源義経の奇襲などにより平家軍は大混乱に。
皆が南の沖に停泊している平家の船めがけ、平重衡も乳母子の後藤兵衛盛長と2騎で海の方向へ走り出しました。
しかし、源氏の梶原景季と庄の四郎高家に追われ船を目指せず西へ西へと馬と共に駆けていました。
その途中に通り過ぎたのが蓮池で、現代では西代駅から東へ徒歩3分、県道21号線に面した西代蓮池公園の入口に「蓮の池址」碑が建てられています。
昭和6年まで、ここには「蓮の池」という四町二反(約4ヘクタール余り)の大きな池がありました。
奈良時代に周辺の田に農業用水を供給する、ため池として作られたもので僧・行基が作ったといういい伝えがあります。
池が完成したとき「蓮の花が美しく咲いているという極楽浄土の池ように、この池にも蓮の花が咲き乱れ、この水で人々が豊かになるように」と願って、
行基は一株の蓮の花を池に投げ入れたといわれます。
やがて池には、その言葉通り蓮の花がたくさん咲き、人々はこの池を「蓮の池」と呼ぶようになったそうです。
「蓮の池」の南には山陽道が通っていたため、「平家物語」「増鏡」「太平記」などの古典に「蓮の池」がたびたび出てきます。
たとえば「平家物語」には平重衝が西へ落ちていくのを、『湊河・かるも河をもうちわたり、蓮の池をば馬手:めて:にみて、駒の林を弓手:ゆんで:に
なし、板屋ど・須磨をもうちすぎて、西へさいてぞ落ちたまふ』と書かれています。
現在、池は残っていませんが、摂津名所図絵に描かれています。
池の南に「源氏松」も。
行基が人々の豊かな生活を願って作られた池が残っていないのは非常に残念ですが、池がなくても豊かに暮らせているということなんでしょうか。
神戸市公園緑化協会のホームページによると3.4haの公園だそうです↓
https://www.kobe-park.or.jp/kouen_keikaku/2018/11/05/西代蓮池公園/
史蹟巡りの合間にここで一息ついてはいかがでしょうか。
ちなみに重衡はこの後、源氏に生捕りにされました。
「平重衡とらわれの松」は須磨寺駅前に、こちらも碑のみです。
須磨寺駅前 | 一ノ谷合戦で平重衡が生捕りにされたときに詠んだ歌が伝わる 平重衡とらわれの松跡 >> |
平重衡 |
長田区 | 平知章は平通盛などと源氏と一緒に、その東側には監物太郎頼賢が祀られています。 源平勇士の碑、監物太郎頼賢之碑 >> |
平知章 平通盛 源氏軍 監物太郎頼賢 |