石橋山合戦の前に源頼朝が戦勝祈願をしたと伝わります。
当時、まだ小さかった楠は現在は約36mに成長し、御神木となっています。
最寄りの湯河原駅から徒歩15分ほどですが、神社前にバス停もあり交通は比較的便利です。
階段を少し上ると御神木に出会えます。
この立派さはぜひ現地でご確認ください。
楠 樹齢約850年(2016年時)
樹高36m
胸高周囲8.2m
湯河原を開拓した人々が信仰し、昔からご利益があるとされているスポット。
五所神社の親神さま天照大神の力を授かった楠木と云われています。
源頼朝が戦勝祈願をした楠木。
幼木だったこの木に「苦難にも打ち勝ち、互いに生長を誓おう」と声を掛けたと云われています。
あなたも楠木の巨木に触れ健康・安全・勝利のパワーを授かりましょう!
カッコよく、美しく描かれているイラスト。
当時、数え年で頼朝34歳、政子24歳。
この木は頼朝軍を見た生き証人ですね。
幹からも新しく伸びています。
さらに階段を上がると拝殿が見えてきました。
■祭神
天照大神 :あまてらすおおみかみ:
彦火火出見尊 :ひこほほでみのみこと:
素盞嗚尊 :すさのおのみこと:
天忍穂耳尊 :あめのおしほみみのみこと:
鸕鶿草葺不合尊:うがやふきあえずのみこと:
伊弉諾尊 :いざなぎのみこと:
瓊瓊杵尊 :ににぎのみこと:
誉田別尊 :ほんだわけのみこと:
伊弉冊尊 :いざなみの みこと:
■由緒
当社は、今からおよそ千三百有余年前第38代天智天皇の御代 加賀の住人 二見加賀助重行らの手によってこの地方が開拓されたとき土肥郷の総鎮守として祀られ、治承4年(1180年)8月、源頼朝、伊豆より挙兵の時この地の豪族 土肥次郎実平は一族と共にこれを助けて頼朝の軍を土肥の舘に導き、石橋山合戦進発の前夜は、社前において盛大な戦勝祈願の護摩をたいたといわれています。以来、土肥一族を始め藩主、領主、庶民の崇敬厚く、現在に至っております。
明治6年7月20日旧足柄県指令により村社となり、大正4年11月神奈川県告示により
神饌幣帛料供進神社に指定、昭和19年7月22日神奈川県指令により郷社に昇格、昭和43年1月24日神奈川県神社庁より献幣使の参向する神社に指定される。
■例祭日
8月1日、2日
また、公式ホームページによると頼朝の4代前の先祖である源義家が康平3年(1060)奥羽征討の際に加護を受けたとあります。
https://goshojinjya.com/
道路を隔てて鳥居の正面にある大きな楠が「明神の楠」
五所神社は、古くは五所大明神社、又は五所大明神と称し、今を去る約千三百有余年天智天皇の御代、加賀の国の住人二見加賀之助重行らの手によってこの地方が開拓されたとき土肥郷の総鎮守として、天照大神はじめ五柱の神霊が鎮座されたと伝えられております。
治承4年(1180)8月、源頼朝 伊豆より挙兵の時、この地の豪族 土肥次郎実平は一族と共にこれを助けて頼朝の軍を土肥の舘に導き、石橋山合戦進発の前夜は、社前において盛大な戦勝祈願の護摩の火をたいたといわれています。
このとき、実平によって佩刀一口:はいとうひとくち:が奉納され、今なお社宝として保存されております。
以来、領主、庶民の崇敬特に厚く、長寿長命の神、湯の産主神として今日に至っております。
昔の神社の境内は広大幽邃:ゆうすい:で参拝者は前方の千歳川の清流で禊ぎを行い、この「明神の楠」の下を経て神社に参拝しておりました。
正保3年(1646)この樹下の参道をもって当時入谷村といわれたこの地方が宮下、宮上の両村にわかれました。
その頃の参道には数多くの楠の巨木が生い茂っておりましたが、世の移り代りと共に、今はこの一樹のみが歴史の跡を物語っております。
昭和54年4月1日 湯河原町指定文化財
クスノキ(くすのき科)
根回り 15.6メートル
樹齢 800年
木の中にも注目ですね。
平安末期からこの地を見守り続けている楠の力を授かりに参拝してはいかがでしょうか?
①西へ徒歩15分
②伊豆箱根バスまたは箱根登山バス乗車約5分、五所神社バス停下車すぐ
湯河原駅から五所神社へ向かう途中、湯河原温泉由来がありました。
熱海~湯河原付近は温泉が有名です。頼朝も湯につかったりしていたのでしょうか?