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源平勇士の碑、監物太郎頼賢之碑<兵庫県神戸市>

知盛を守る

一ノ谷合戦の時、平知盛を守り討たれた息子の知章と郎等の監物太郎頼賢:けんもつたろうよりかた:。

知章は源平勇士の碑として平通盛(父・知盛のいとこ)や源氏の木村源吾重章、猪俣小平六則綱とともに一ヶ所に弔われています。
何度か訪れたことがあるのですが、いつも花が供えられている監物太郎頼賢之碑とは徒歩3分ほどの距離です。

まずは源平勇士の碑から。

源平勇士の碑

一ノ谷合戦の時、平知盛軍は生田の森付近の大手で源範頼と戦いとなりました。
義経軍の奇襲により平家は総崩れ、沖に停泊する平家の軍船へ退くことにしました。

知盛、知章、頼賢の3騎で海を目指す途中、源氏の児玉党の大将と思われる者が知盛に組み付き、知盛を討たせまいとする知章と頼賢の奮闘が平家物語に詳しく描かれています。

移転を繰り返す

解説板より
■源平勇士の碑

この附近は小平六池:こへいろくいけ:といわれていた。
寿永3年(1184)源平一の谷の合戦で討ち死にした平通盛:たいらのみちもり:源氏の木村源吾重章同じく猪俣小平六則綱:いのまたこへいろくのりつな:(平盛俊を討ち取った)らの碑がこの附近の西国街道に面してあった。

後、長田区明泉寺附近で討ち死にした平知章:たいらのともあきら:の碑をここに移し、敵味方のへだてなく源平勇士の碑としてあわせ弔ったといわれ、つわものどもの夢の跡といった姿である。

平知章について

生田の森の大手を守っていた大将軍、父知盛:とももり:の危急を救って自ら討たれ、家臣 監物太郎頼賢:けんもつたろうよりかた:も知章を救おうとして、ともに明泉寺附近で戦死した。

享保年間(1716)に並河政所(「攝津志」の著者)が知章を孝子として顕彰するためこの地に移したと伝えられている。

昭和46年2月

神戸市教育委員会
東尻池財産区管理会
平成6年3月 長田区役所

源氏も平家も

知章の碑の左側。
校舎が見える

知章が1番大きい

奥の三角形ぽいのが「越前三位 平通盛碑
通盛は知章の父・知盛のいとこで南都焼討や墨俣川合戦、俱利伽羅峠合戦などにも度々出陣していました。
一ノ谷合戦前夜に北の方・小宰相に、明日自分は討ち取られると思うと弱気な気持ちを打ち明けていました。

小宰相はこのときお腹に子供がいることを打明け、通盛は30歳にして子供が出来たと大層喜び小宰相を気遣いました。
しかし、通盛の不安は的中し一ノ谷合戦で首を取られました。
通盛の最期を伝えたのが君太滝口時員:くんだたきぐちときかず:。通盛から何としても生き残って北の方の行方を尋ねるように命じられていました。

(平家物語によると通盛を討ったのは近江の木村三郎成綱、武蔵の玉の井の四郎資景と時員は小宰相に伝えいる)

小宰相は悲しみのあまり屋島へ向かう船から身投げしてしまうのでした。
通盛カッコイイ

源氏軍。
左:猪俣小平六則綱
右:木村源吾重章
敵も

後ろ側には大正9年7月東尻池町建立と刻まれています。
大正時代

名残惜しいのですが、監物太郎頼賢之碑へ向かいました。
川近く

源平勇士の碑から神戸村野工業高等学校を隔てた反対側の住宅街に建てられています。

監物太郎頼賢之碑

この道を進みます。
この道

燈籠が目印です。
ひっそり

左の壁側に詳しい説明板が設置されています。
日のあたり具合

解説板より

寿永3年2月7日 源平須磨之役頼賢奮闘記

寿永の昔、生田の森の大将軍 新中納言知盛は部下の者総べて落ち失せ、息子 武蔵守 知章、監物太郎頼賢と主従3騎、汀の方へ落ち行けり、と団扇の旗を立て、児玉党と思はるる者が10騎計り鞭を挙げ鐙を合せて追いかけ来たり、之を見し監物太郎頼賢は、得意の弓にて真先に進みし旗差の脛骨を射て落せり、党の大将と思はるる1騎の武者は知盛に組付かんと駈寄れり、息 知章は父を討すまじと中へだてむずと組付き取って押へ首を取り立上らんとする処を敵兵打重なりて遂に知章の首を揚げた。

監物太郎はその中の一兵の首を取った。

監物太郎は指詰め矢種のある程を射尽し太刀を抜いて戦ったが、左の膝口を敵に射られ立ち上がらず討死せり。

其のまに紛れ新中納言知盛は井上黒の愛馬にて海上二十丁計り遊ぎ船に乗り移り助かり給へり(新訳平家物語抜萃)

■監物太郎頼賢之碑

監物太郎頼賢は中納言平知盛の家臣でした。
平家物語によると寿永三年(1184)2月7日、源平一ノ谷の合戦で活躍した監物太郎は、主人の平知盛とその嫡男平知章の三人で海のほうへ落ちのびようとしていました。

その途中、源氏方の児玉党との戦いになり、主人知盛を助けようとした監物太郎は知章とともに討死にすることになりました。

そのことによって知盛はおちのびることができたのです。

『摂津名所図会』によると、江戸時代の享保年間に、並河誠所が諸国行脚の途中、討ち死にの地(長田区明泉寺)に立ち寄り、監物太郎の忠義を称え顕彰するため、西国街道近くの現在の地に石碑を移したということです。

現在、保存会により、毎年五月七日の命日に祭礼が執り行われています。
また願い事がかなうとされている為、現在でもお参りに訪れる人が絶えることがありません。

なお、平知章の碑も同じ頃にこの付近に移され、源平勇士の碑として五番町八丁目に祭られています。

監物太郎保存会
神戸市認定地域史跡
平成17年3月15日認定

新しくなっていた

地元の方々により手入れされている様子です。
花

墓

2016年ころからこの土地は知章の墓がある明泉寺の管理となり、法要も知章と併せて行われることになったと明泉寺を参拝した際に御住職からうかがいました。
明泉寺へは北へ徒歩30分ほどです。

長田区明泉寺町 一ノ谷合戦で討取られた平知章の墓
明泉寺 >>
平知章
住所
兵庫県神戸市長田区四番町、五番町
※神戸村野工業高等学校を挟んで西側が源平勇士の碑、東側が監物太郎頼賢之碑
交通
①神戸市営地下鉄「長田」駅から西へ徒歩1~4分
②阪神「高速長田」駅から西へ徒歩1~4分

■源平勇士の碑

■監物太郎頼賢之碑

参拝について
自由
参拝目安時間
各10分~
お気に入り度
★★★★★
参拝日
2021/01/10他
備考

井上黒の紙芝居

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