1.玄昉の墓<福岡県太宰府市>
平家物語覚一本、7巻にある「玄昉」の章。
平安末期より400年ほど前の奈良時代の出来事です。
時代が全然違うのに、平家物語に登場します!
この章では1182年に決まった伊勢大神宮へ行幸の理由として、天平12年(740年)に藤原不比等の孫・藤原広嗣が起こした反乱について触れ、そこに僧・玄昉が登場します。
②西鉄「都府楼」駅徒歩20分
※太宰府駅のレンタサイクルが便利です。
玄昉は奈良時代の僧、阿倍仲麻呂、吉備真備らと共に遣唐船で中国に渡り、在唐18年、玄宗皇帝によって三品に准せられ、紫袈裟を許された。帰国後、奈良の宮廷で権力を振るったが、天平17年(745)造観世音寺別当に左遷され、翌年、観世音寺造立供養の日に死去。政敵藤原広嗣の霊に殺されたと伝えられる。
玄昉は遣唐留学僧に選ばれた奈良の興福寺の僧で、法相宗を日本に伝えた人物です。
養老元年(717年)唐に渡り、18年後に帰国。
一緒に戻ってきた吉備真備と共に橘諸兄の下で権力をふるうようになりました。
そのことに不満を持ったのが藤原広嗣。
広嗣は太宰少弐として太宰府へ左遷された後、玄昉や吉備真備を排除しようとして反乱を起こします。
反乱はすぐに平定され、藤原広嗣は処刑されました。
広嗣の反乱から5年後に玄昉は観世音寺の造営の名目で太宰府へ、そこが終焉の地となりました。
平家物語によると観世音寺の造立供養の際、広嗣の霊が玄昉を首を取って雲の中へ入っていったと描かれています。
玄昉、阿倍仲麻呂や吉備真備達と遣唐留学僧として唐へ
天平7年(735年)
玄昉、吉備真備達が唐から帰国
天平10年(738年)
藤原広嗣、太宰府へ
天平12年(740年)
藤原広嗣、肥後で反乱を起こし処刑
天平17年(745年)
玄昉、観世音寺の別当として太宰府へ
天平18年(746年)
観世音寺造立の供養の際に玄昉、没
お墓は観世音寺に続く北西の道路沿いにあり、住宅に隣接しています。
お墓の後ろには板塔婆が。
2.頭塔<奈良県奈良市>
お墓は終焉の地・福岡県の太宰府にありますが取られた首の行方はというと、奈良県奈良市の興福寺の庭に落とされ、玄昉の弟子が「頭墓」を築いたと平家物語にみえます。
太宰府から興福寺まで新幹線を利用しても約5時間(約720km)かかります!
藤原広嗣は1日で肥後の松浦から京へ往復できる馬を連れていたと云われています。霊になってもその馬を連れていて移動したのでしょうか??
頭墓は今では史跡「頭塔」として、国の史跡に指定されています。
7段になっている特異な形から、ピラミッドみたい!と言われているそうです。
玄昉の頭を埋めたという伝承が「頭塔」の由来になりました。
②近鉄奈良駅から奈良交通バス約8分「破石町(わりいしちょう)」、バス停下車すぐ
一般公開は正倉院展に合わせた10月下旬~11月上旬他。
それ以外の時期は「ホテルウェルネス飛鳥路」の受付で申し出ると見学出来るそうです。
一般公開時期のみガイドさん常駐。
頭塔の周りは見学通路が設けられていてぐるっと一周出来ます!
見学入口から裏側に碑と解説板があります。
大正11年3月8日国指定頭塔は古くから奈良時代の傑僧玄昉の頭を葬った首塚であるとの伝えがあるが、神護景雲元年(767)良弁僧正の命により東大寺僧実忠が造営した土塔であることが明らかになっている。
外見は森であるが、本来方形32メートルの四方錐台で、七段に築かれた仏塔である。各段の四方には現在27基の石仏がのこっている。
石仏の高さ61~111センチメートル。それぞれ浮彫・線彫などで如来三尊や侍者等をあらわした一群は変化に富んでいる。奈良時代の彫刻として価値の高いこれらの石仏のうち、当時確認できた13基は、昭和52年6月11日重要文化財に指定された。
平成12年3月 奈良県教育委員会
頭塔には全部で44基の石仏が配置されていたと考えられており、そのうち発見されているのは42基です。
1番上にある五輪塔は誰のものか分からない、江戸時代のものだそうです。
特別公開中に参拝すると特製クリアファイルを頂けました!
興福寺も東大寺も治承4(1180)年の南都焼討で大きな被害を受けた場所です。
色んな時代を重ねて平家物語を巡るのも楽しいですね。