崇徳上皇の寵妃・阿波内侍:あわのないじ:ゆかりの寺院。
阿波内侍は信西の孫(もしくは娘)で、建礼門院に仕えていました。
解説板より
平安時代、崇徳上皇に仕えた阿波の内侍が上皇の菩提を弔うため都に建てた願勝寺を、母の生国の阿波の維摩寺(奈良時代建立)に移し願勝寺となる。
平安時代、崇徳上皇に仕えた阿波の内侍が上皇の菩提を弔うため都に建てた願勝寺を、母の生国の阿波の維摩寺(奈良時代建立)に移し願勝寺となる。
歴代守護や藩主の庇護を受け郡内を代表する真言宗の寺院である。
国登録有形文化財である八脚門(明治時代)、天竜寺と同一手法の滝組の県指定名勝「願勝寺庭園」(室町時代)、県内最古の博物館「美馬郷土博物館」がある。
崇徳上皇と保元の乱
保元の乱(1156年)の時、崇徳上皇は数え年38歳。保元物語によるとその年に讃岐に流されました。
そして『五部大乗経』(華厳経、大集経:だいじつきょう:、大品般若経:だいぼんはんにゃきょう:、法華経、涅槃経の五経典)を3年間で書き写し、京の近くに置いてほしいと弟の覚性法親王に送ったが、後白河天皇がこれを許さず送り返されました。
経を置くことすら叶わない崇徳上皇は「日本国の大悪魔とならむ」と誓い、舌を食い切った血で経に書き残しました。
その後は髪も爪も切らず讃岐に流されてから8年後の長寛2年(1164)8月26日に崩御しました。
父である鳥羽法皇からは自分の子ではないと忌み嫌われ、崇徳上皇の子どもが天皇になることも阻まれ悲運という言葉では表しきれない人生だったことが想像されます。
阿波内侍は壇ノ浦合戦後、出家した建礼門院たちと共に大原で過ごし、建礼門院を看取りました。
現在は平知盛の正室・治部卿局や平重衡の正室・輔子たちの墓と同じ場所に阿波内侍の墓があり、小さな五輪塔や宝筐院塔が存在しています。
願勝寺
下記の畧寺史には「平安時代ー新院崇徳上皇妃 阿波内侍の中興」と記されています。
解説以外に阿波内侍に関することは見当たりませんでしたので境内写真載せておきます。
本堂の隣の建物
住所
徳島県美馬市美馬町字願勝寺8
交通
JR貞光駅から北へ徒歩40分
参拝について
自由
参拝目安時間
15分~
お気に入り度
★★★☆☆
参拝日
2019/04/29
備考
美馬市ホームページに美馬の「寺町」として紹介されています。
(願勝寺はページ真ん中くらい)
http://www.city.mima.lg.jp/kankou/kankouannai/miru/0012.html
(願勝寺はページ真ん中くらい)
http://www.city.mima.lg.jp/kankou/kankouannai/miru/0012.html
訪れたのはGWでしたが、他に参拝者もなく静かでよいところでした。