源頼朝が文治五年(1189)に奥州藤原氏征討の戦勝を祈願、頼朝の舅にあたる北條時政が建立しました。
境内には北條時政の墓があります。
平治の乱に敗北し伊豆に流罪となった源頼朝を、北條時政は監視する立場でした。
しかし時政の娘の北條政子が頼朝と恋仲になり、当初は猛反対する時政も政子の熱意にほだされたのか頼朝を支援する立場へと変貌し、鎌倉幕府の執権なったのでした。
略縁起
上記の文章は願成就院公式ホームページと全く同じです↓
https://ganjoujuin.jp/ganjoujuin.html
下記が墓の中央の拡大写真です。
北條時政公没800年忌供養として造立
北條時政公(1138年生、1215年没、享年78歳)は、願成就院の創建者で、今日に伝わる国宝指定の運慶作諸仏の檀越である。
時政公はこの地、伊豆国北條に居館を有した平家一門の伊豆における有力豪族の1人で、伊豆国府在官人であった。
1160年14歳で伊豆配流となった源頼朝を伊東祐親と共に監視する立場にあった。
激動する歴史の中、娘・政子が流人・頼朝に嫁し、一転して頼朝の岳父となる。
1180年8月17日の頼朝伊豆挙兵では、平家目代山木兼隆攻めの主将となりてこれを成功させる。
以後、平氏討伐、鎌倉幕府創設では頼朝の参謀役、智将として大いに活躍してその立役者となる。
頼朝亡き後も、幕府初代執権に就任して、東国武家政権の確立に努め、北條氏繁栄の礎となり、鎌倉北條氏の祖と呼ばれる幕府創期の最重要人物の1人だる。
隣接して跡地も残されています。山門まで戻り、東側。
訪れたのが2月だったため少し寂しい写真になりました。春~夏に再度訪れてみたいです。
国指定史跡 願成就院跡
この付近一帯を願成就院跡という。
吾妻鏡によると、文治5年(1189)6月6日「北条殿(時政)御願として、奥州征伐のことを祈らんがため、北条(この付近の地●)のうちに伽藍の営作を企てられ」との記載があって、源頼朝による奥州藤原氏攻めの成功を祈願して、北条時政が建立した寺院であり、その後同寺院建立に関して、文治5年7月18日及び、同年11月24日の2回、吾妻鏡に関連記事がみえ、その内容から推して鎌倉初期に創建された北条氏の氏寺であると思われる。
延徳3年(1491)伊勢新九郎(早雲)によると足利●●●攻めの際、寺の殆どが焼失したといわれるが、僅かに時政の命により文治2年(1186)5月運慶(当時33才)が造立した仏像(重文指定5●)だけが、現願成就院に伝わり、鎌倉幕府の中心権力であった北条氏のおもかげを偲ぶことができよう。
昭和44年以降数次にわたる発掘調査の結果、現在地は承元2年(1207)北条時政により建立された「南塔」の遺構と推定されている。
※●は読めませんでした
韮山町教育委員会
https://ganjoujuin.jp/admission.html