平安時代、何日もかかる熊野参詣を33回(もしくは34回)も行った後白河法皇。
その道中のお気に入りの地に母・待賢門院(藤原璋子:ふじわらの しょうし/たまこ)を弔うために建立した「ぼおんじ」
淀川の南側にあり、現在は住宅が立ち並んでいます。
仁安3年(1168)に、後白河法皇が高野山に参詣される途中、とくにこのあたりの景色を好まれ、ここに生母・待賢門院の菩提のためにこの寺を創建されました。
寺の名前には「母后報恩」の意味がこめられています。
往時は12の坊舎を有する大伽藍で、代々住職は皇女が勤める尼寺でした。淀川の洪水や兵乱でしだいに勢いが衰え一時は荒れ寺となっていたこともありました。
寺宝として後白河法皇と待賢門院の画像のほか、享保4年(1719)の略縁起などがあります。
(以下、「別冊歴史読本 平清盛ガイドブック(新人物往来社)を参考にし、法皇及び上皇は天皇で統一して記載します)
藤原璋子は康和3年(1101)に誕生、幼いころに父の藤原公実を亡くし、白河天皇と祇園女御の猶子となりました。
永久5年(1117)数え17歳の時に白河天皇の孫・鳥羽天皇に入内し、翌年には中宮。
崇徳天皇(顕仁親王)
通仁親王
君仁親王
後白河天皇(雅仁親王)
覚性法親王(本仁親王)
禧子内親王
統子内親王(上西門院)
の母となりました。
ただし、崇徳天皇は鳥羽天皇の子ではなく白河天皇の子だと云われています。それは璋子が白河天皇の愛人的存在となっていたためです。
鳥羽天皇に入内する前には藤原忠通との婚姻も持ち上がりましたが、実現しませんでした。忠通の父・忠実が断ったとされています。
5歳の顕仁親王が践祚し崇徳天皇なった翌年、天治元年(1124年)に待賢門院の院号が贈られました。
崇徳天皇の出生の秘密は確かめようもありませんが、それが原因で鳥羽天皇は徹底的に崇徳天皇の子が皇位につくことを阻止し、崇徳天皇と後白河天皇兄弟の政権争いである保元の乱となりました。
真相を知っているのは藤原璋子だけ…??
保元の乱への経緯は安楽壽院のページ( https://genpei.sakura.ne.jp/genpei-shiseki/anrakujyuin/ )にまとめました。
後白河天皇は兄からみて崇徳天皇は兄かもしれないし、違うかもしれない複雑な兄弟関係ですが母・璋子のことは大切に思っていたから母恩寺が建てられたのでしょうね。
4月参拝時の境内
解説板にある「後白河法皇と待賢門院の画像」も気になりましたが、観光寺院ではなさそうですので境内のみのお参りにしました。
付近には道しるべもありました。