「あさくらじんじゃ」と読みます。
以仁王:もちひとおう:は後白河天皇の第三皇子。
三条高倉に住んでいたため、「高倉宮」とも呼ばれ、異母弟の高倉天皇と混同されることもありますが別人です。
高倉宮=後白河天皇の第三皇子・以仁王
高倉天皇=後白河天皇の第七皇子で平清盛の甥。
平家により皇位継承の望みが絶たれた以仁王は、源頼政に勧められて挙兵、敗北。
頼政は平等院で自害、以仁王は南都に逃れる途中この旦椋神社に立ち寄り、さらに6~7km南下した綺田付近で討ち取られました。
南都を目指した理由は事前に興福寺に牒状(書状)を送り、興福寺が協力することになっていたためです。
鳥居の脇には以仁王をイメージしたイラスト
『あさもっちー』らしい。
旧観音堂村の産土神:うぶすながみ:。
旦椋は穀物を収納する校倉:あぜくら:の古語。
また、平治の乱で知られた以仁王:もちひとおう:の冑を祀ったとも伝え、冑神社と称したという。
本殿は、二間社流造、こけら葺。規模・つくりは荒見神社本殿(重要文化財)に共通しており、桃山時代風のはなやかさがある。現在、本殿は覆屋で守られている。
境内は、カシが中心の緑豊かな森である。
境内地の背後は砂利採取地がせまっているが、氏子の努力によって境内の緑は守られ、鎮守の森にふさわしい景観を遺している。
当社の例祭は十月四日である。観音堂の道沿いには、高張りちょうちんがたちならぶ。
神輿の巡行はなく静かな祭りである。
桃山時代の建築様式を伝える本殿や緑豊かな境内地をもつ当社は昭和58年4月15日付で、京都府より本殿は登録文化財に登録され、本殿を含む境内地は環境保全地区の決定を受け、将来にわたる保全と保護の措置が講じられた。
※『平治の乱で知られた以仁王』は誤り。平治の乱は以仁王の異母兄・二条天皇と以仁王の父・後白河法皇の対立で当時、以仁王は9歳。
恐らく「以仁王の挙兵で知られた」と書きたかったと個人的な予想。
建設会社や工場が建つ一角に見えてくる鳥居。
真っ直ぐ正面が本殿。
上記写真の向かいに壊れた仮設トイレが…
1月末、蕾が多数。旦椋神社の名が入った合格祈願絵馬も掛けられていました。
本殿の周りを見てみると心配な状態でした。
本堂の手前のある階段。上ってみましたが…
どこかに続いているのかと思いきや行き止まり。
本殿以外にも何かが祀られています。
興福寺まで辿り着ければ匿ってもらえた可能性もありますが、以仁王は馬に乗ることにも慣れていなかったようでその道のりはかなり長かったようです。
興味がある方はこちらも。
3駅先の玉水駅から徒歩20分ほどの場所にある以仁王の墓。
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