※このページの写真は2024年1月7日撮影
平家一門が都落ちをし船で西国を目指し太宰府に入りますがそこも追われ、辿り着いたのが屋島で、平家に仕える阿波民部重能により安徳天皇の行宮が築かれました。
解説板より
寿永2(1183)年、平宗盛は安徳天皇を奉じて一の谷から屋島に来ました。
ここは檀の裏の入江にのぞみ、後ろに険しい屋島の峰、東に八栗の山をひかえ、戦には地の利を得たところであったので宗盛は、行宮を建て将士の陣営をつくりました。
安徳天皇社のあたりが行宮跡であったといわれています。
寿永2(1183)年、平宗盛は安徳天皇を奉じて一の谷から屋島に来ました。
ここは檀の裏の入江にのぞみ、後ろに険しい屋島の峰、東に八栗の山をひかえ、戦には地の利を得たところであったので宗盛は、行宮を建て将士の陣営をつくりました。
安徳天皇社のあたりが行宮跡であったといわれています。
お参りしたのが2024年辰年。
本殿の向かって左側に「大場光親之墓」
すみません、勉強不足で誰なのかわかりません。
元暦元年(寿永3年)7月15日なので一ノ谷合戦から約5か月後、屋島合戦より前です。
そしてその奥には屋島合戦で散った人々の供養塔も。
解説板より
寿永4年2月(1185)早春、この地で繰り広げられた源平屋島合戦は、滅びゆくものの哀れと、追うものの雄々しさを描く一巻の絵物語として、今に伝えられている。
寿永4年2月(1185)早春、この地で繰り広げられた源平屋島合戦は、滅びゆくものの哀れと、追うものの雄々しさを描く一巻の絵物語として、今に伝えられている。
この戦いで散ったつわものたちの墓があちらこちらに散らばっていたものを、いつのころからか里人たちが、安徳天皇ゆかりのこの社の本殿の裏に集められていたものを、この地へ移設のうえ供養したものである。
社裏側から建物全体を見るとこうなっています。
模様
眺めも良かったです。
また、この周辺の地名は木偏の檀之浦。
土偏の壇ノ浦もありました。
ここから南へ10分弱の場所に菊王丸の墓もあります。
菊王丸の墓について→https://genpei.sakura.ne.jp/genpei-shiseki/kikuoumarunohaka/
他の屋島合戦の史蹟も順次追加予定です。
住所
香川県高松市屋島東町557-1
交通
琴電「八栗」駅から北へ徒歩30分
この分岐点から徒歩約8分
参拝について
自由
参拝目安時間
10分~
参拝日
2010/10/29、2024/01/07
参考サイト