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安楽壽院<京都府京都市>

近くには北向山不動院も

保元元年7月2日に崩御した鳥羽法皇が眠る安樂壽院(あんらくじゅいん)。
鳥羽法皇と崇徳上皇の複雑な親子関係が保元の乱の原因となりました。

住所
京都府京都市伏見区竹田中内畑町
交通
近鉄電車および京都市営地下鉄「竹田」駅より徒歩8分

参拝について
外から自由参拝
参拝目安時間
10分~
お気に入り度
★★★☆☆
参拝日
2013/09/21
備考
解説板より
真言宗の寺。保延3(1137)年、鳥羽離宮の東殿を寺に改めたことに始まる。
開基は鳥羽上皇、覚法法親王を導師に落慶した。
保延5(1139)年、本御塔(ほんみとう)と呼ばれる三重塔が建立され、続いて九躰阿弥陀堂、焔魔堂、不動堂等が建てられた。
保元元年(1156)鳥羽法皇(上皇)が本御塔に葬られた。
鳥羽天皇安楽寿院陵はそのあとである。
保元2(1157)年、皇后美福門院は新御塔(しんみとう)を建立、ここには後に近衛天皇の遺骨が納められた。
近衛天皇安楽寿院南陵がそれであり、現在の多宝塔は慶長11(1606)豊臣秀頼により、片切且元を普請奉行として再興されたものである。
現在の安楽寿院は真言宗智山派に属し、本尊阿弥陀如来坐像(重要文化財)は鳥羽上皇の御念持仏と伝えられ、胸に卍が記されているため卍阿弥陀とも呼ばれる。
(後略)

解説

複雑な親子関係

鳥羽法皇崩御の9日後に鳥羽法皇の子供である崇徳上皇と後白河天皇が対立したのが『保元の乱』です。

この2人は待賢門院・璋子を母とする同母兄弟ですが、崇徳上皇の本当の父は鳥羽法皇の祖父・白河法皇であると鳥羽法皇が信じているため崇徳上皇を忌み嫌い「叔父子」(祖父の子、つまり叔父にあたるのに我が子であるから)と呼んでいました。

鳥羽天皇系図

待賢門院・璋子は幼い頃に父をなくし、白河法皇に相当可愛がられ、鳥羽法皇への入内も白河法皇の意向だったようです。

その後、入内した美福門院・得子との間にも子供が生まれ、崇徳上皇を強引に退位させ、その子を天皇にしました。
これが近衛天皇です。

しかし、近衛天皇は子供がないまま崩御、次の天皇は……この問題が浮上した時、崇徳上皇は我が子・重仁親王を即位させたかったのですが鳥羽法皇は崇徳上皇の血筋を徹底的に避け、崇徳上皇の弟が即位しました。
これが後白河天皇です。

もう一度系図を載せます。
鳥羽天皇系図

鳥羽法皇が崩御したことが、きっかけで今まで虐げられていた崇徳上皇が政権争いのため藤原忠実、頼長親子と組み保元の乱へと続きます。

鳥羽法皇も自分が世を去ってこれほどすぐに政権争いが起こるとは思ってもみなかったでしょう。

安楽壽院の周辺には白河法皇や鳥羽法皇が造営した鳥羽離宮跡が広がっています。

安楽壽院

安楽壽院

本尊

鳥羽離宮

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