神戸の平家ゆかりの地として書籍などで紹介されている〈阿弥陀寺/阿彌陀寺:あみだいじ〉
境内の魚の御堂が平清盛が魚供養のために建てたと伝えられていますが、創建の礎を築いたのは清盛公の甥であるあの方で、2019年に歌碑が新しく建てられました!!
2019年6月2日の定例会の内容です。
①第二十六世 耆山(ぎさん)和尚の100回忌法要
②歌碑の除幕式
③兵庫歴史研究会の梅村氏による講演会
※このページでは主に②と③を取り上げています。
耆山和尚の孫弟子の方のご挨拶と法要の後、小雨降る中境内にて除幕式が執り行われました。
除幕の前に読経もありましたが人の映り込みのため除幕のみの動画です。(約15秒)
そう、阿弥陀寺創建には平経正が深く関わっています。
略系図 |
平 経正:たいらのつねまさ
琵琶の名手で平清盛の甥で敦盛の兄。 8歳から元服する13歳まで仁和寺で過ごし、平家都落ちの際には与えられた琵琶の銘器「青山:せいざん」を返しに仁和寺を訪れて守覚法親王と歌を詠み交わした。 一ノ谷合戦で討死。 (平家物語覚一本) |
この日配布された資料によるとこの歌の訳は
福原の西にあった湖を詠んだ歌で湖とは難波潟のことだそうです。
湖の北に遣唐使たちの安全祈願を願う住吉神社がありましたが遣唐使が廃止され暇になった住吉さんを、大輪田泊りに来る船たちの安全祈願として経正がこの場所に移したのが阿弥陀寺の始まりだそうです。
当山は、八百有余年の長い間、兵庫津、和田(大輪田)の地にあり「念仏の灯」を伝えてきました。其れゆえ阿彌陀寺は、親しみを込めて「あみだいじ」と呼ばれるようになりました。
法然上人から西山上人を経て、浄土宗西山禅林寺派の寺院として、文永8年(1271年)に浄音上人の開基と伝えられております。
又、故事来歴を記した「西摂大観」には『境内の鎮守・住吉神社は最も古く寿永年間(1182~1184年)の平経正圓空大居士による勧請といわれ、寺の創建もこのころとする』と記されております。
神戸市教育委員会の調査では江戸時代の元禄年間(1688~1704年)の兵庫津地図にすでに見られており、池田恒興(信輝)による兵庫城の築城(1580年頃)に伴い、現在の地に移転したものと推察されます。
令和元年(2019年)阿彌陀寺創建の礎を築いた平経正(清盛の甥)の歌碑を建立しました。
講演では木曽義仲挙兵や屋島合戦、法然上人のことなども含めて阿弥陀寺の歴史について幅広く細かに説明がありました!!
そして、私にとってものすごく謎だった境内にある清盛公が魚供養のために建てたという魚の御堂:うおのみどう:の礎石。。
「魚の御堂」があった場所と伝わり、地元の人々は「行の御堂:ぎょうのみどう」を『ぎょんのみどう』と呼んでいたのが「ぎょ」に「魚」があてられたというお話!!
魚供養なんてきいたこともないとまでおっしゃっていました(^^*))
今までは平家物語で鱸が船に飛び込んできたのは吉事でそれにより平家が栄えた云々とあるので、それに関連するものかと勝手に思っていましたが、私はぎょんのみどうに納得!!
複数の説があるためどれを信じるかは人それぞれ、自由だと思います(^-^)
ご縁があって参加させていただいた阿弥陀寺定例会。
経正と阿弥陀寺の関係など初めて知ることが多く充実の一日でした。
こんな美しいお菓子もいただきました。
ありがとうございました(^-^)
阿弥陀寺へは神戸市営地下鉄 海岸線「中央市場前」駅から南へ徒歩5分、近くには琵琶塚や清盛塚があります。
本日の講師・梅村氏の著書「義経の陥穽-わな-」
一ノ谷合戦の様子がありありと目に浮かぶような描写が多く辛くなりながらも今、読んでいます。