平宗盛の息子・平能宗(たいらのよしむね)。壇ノ浦合戦で捕らわれ、平家物語では処刑の場面が涙を誘いますが、兵庫県宍粟市には『播磨公 弁円(はりまのきみ べんねん)』の名で墓が地元の方の手で守られています。
平清盛の嫡男宗盛の一子 副将 能宗(よしむね)治承4年(1180)820年前に生まれ6才の3月平氏一族壇ノ浦に敗れ孤独の身となり、祖父母の住む川戸の地に16才で播磨の国を去るまで暮らした。
18才で修験道の苦行に励みまもなく一坊を司り、豊前僧播磨の公弁円を名乗る。
建暦2年には関八州の僧司となり弁円の名は高まった。
宗祖親鸞聖人が稲田に草庵を結ばれたのが建保5年(1217)これから20年親鸞聖人と弁円 板敷き山の変で聖人のお姿には光輝が拜され、心をうたれ即座に門侶に加わって聖人自ら法名明法房とつけられた。
その時に弁円公が自分の想いを詠まれた歌です。
「山も山道も昔に変らねど
かわりはてたる我が心かな」
ふるさと戸原地域づくり委員会
川戸岩田神社を目印に南西の住宅地へ
「能宗」「義宗」などと表記され、読み方は「よしむね」。解説に書かれている「副将」は幼名。
平宗盛の次男で壇ノ浦合戦があった寿永4(1185)年は8歳、6歳、5歳などと平家物語各本や吾妻鏡などで年齢が様々で、また処刑方法についても異なって描かれています。
簡単にまとめると……
・弁円は戸原村川戸で誕生
※幼児期を過ごした地には触れられていない
・成長してこの地で修験道に励む
・30代半ばで常陸の国へ
・流されていた親鸞が常陸へ。対面、帰依
・常陸で72歳の生涯を終える
・近代まで法会が営まれていた
弁円が励んでいた修験道は修行してこそ、霊験を得られるという信仰。それに対し常陸で出会った親鸞(しんらん)は法然上人の弟子で、念仏を唱えることで誰もが救われるという教えを説いていました。
(ちなみに南都焼討の罪で処刑される直前の平重衡は法然上人に教えを請い、南無阿弥陀仏を唱えながら斬首されました)
そして親鸞に帰依し明法房と名を変えて常陸で浄土真宗の弘布に努め、常陸で生涯を終えたとも、戦乱を避けて播磨に移ったとも伝わっています。
この弁円の墓については事前に得られる情報が少なく、宍粟市の市役所に問い合わせ、社会教育文化財課の方がものすごく丁寧な対応で、資料や地図を早々に用意してくださいました。おかげ様で弁円の墓にお参りし、こうしてまとめることが出来ました。
この場を借りて御礼申し上げます。本当にありがとうございました。
道路を歩いていると大きな解説板が目に飛び込んできます。
こちらは背面で写真左の木の横の通路を通って正面からお参りできます。
左側にはやや小さな五輪塔が並び、右側にはバラバラに寄せ集めたような五輪塔が積まれていました。
播磨弁円の墓と刻まれた碑、背面には「生れ地」の文字が。
綺麗に整備され、地元の方々に大事にされているのがよくわかります。
宍粟の方々はとてもあたたかく、またこの地を訪れたいと思いました(*^^*)