治承4年12月、東大寺の大仏までが炎にまかれた南都焼討。
佐紀神社もまた被害を受けた建物の一つです。
平城宮跡歴史公園の北側、住宅が立ち並ぶ池の端に鎮座する佐紀神社。
木が生い茂り厳格な雰囲気が漂っています。
鳥居近くの由緒。
真ん中ほどに『安徳天皇御宇治承四年内蔵頭三位中将 平重衡ノ焚ニ罹リシモ素ヨリ』とあります。
治承4年の平家と南都の僧たちとの戦いで、灯りをとるための炎が風で燃え広がり、広範囲に被害をもたらし大仏まで焼けてしまいました。
このとき総大将だった平重衡は南都の僧たちから仏敵として扱われるようになりました。
重衡に出陣を命じたのは父・平清盛で、大仏を焼いたことに清盛は喜びました。
それから約2か月後の治承5年閏2月4日に清盛はあっち死になどと言われるほど高熱でこの世を去りました。
これは大仏を焼いた罰とも。
かなりの範囲に燃え広がったようですが、佐紀神社と大仏のある東大寺は4.5kmほど離れているのですが、ここまで炎がやってきたのでしょうか??
疑問が残りますがお参り。
本殿の東側の木々の間にも何かが祀られているようです。
こじんまりとした神社で南都焼討関係の詳細は不明ですが、ここも源平ゆかりの地として紹介しておきます。
西へ徒歩1分、池の向こう側にも佐紀神社があります。
池には亀や鯉などが生息しています。
ここにはとくに南都焼討のことは書かれていませんが、奈良まちあるき風景紀行サイトによると共通の神を祀っているそうです。
https://narakanko-enjoy.com/?p=11441
北へ7分ほど歩いたところに八幡神社を見つけました。
もしかして源氏になにか関係あるかも?!と立ち寄ってみました。
社殿創建は不詳であるが天正4年(1576)に超昇寺兵部小輔氏が息子弘盛と共に一家の安栄を祈るため祈願文が保存されているそうです。
由緒には源氏に関することはありませんでしたが、前九年合戦の絵が掲げられており、源義経や頼朝の先祖の源義家が描かれていました。
平城宮跡歴史公園が近く、春には桜、秋にはススキなど季節ごとに楽しめます。