元は源義盛、改名し源行家:みなもとのゆきいえ:と名乗るようになった源為義の十男。
新宮で生まれ育ったため、新宮十郎行家:しんぐうじゅうろう ゆきいえ:と呼ばれています。
治承4年(1180)2月に安徳天皇が践祚したことにより皇位継承の望みが絶望的になった以仁王(もちひとおう。後白河法皇の第三皇子)は、同年4月に平家追討の令旨を出しました。その令旨を各地に散らばる源氏に伝えたのが源行家です。
それにより頼朝や義仲たちが挙兵しました。(頼朝は文覚上人が挙兵を促したとも)
行家自身は戦はあまり得意ではなかったようで、治承5年(1181)3月の墨俣川合戦や寿永2年(1183)11月の室山合戦では敗北、寿永2年(1183)5月の志保山合戦(倶利伽羅峠合戦の搦手)では苦戦し、甥の木曽義仲の加勢によりようやく勝利しています。
行家の屋敷跡は……駐車場の塀に解説が残るのみ。
■新宮十郎行家(源義盛)屋敷跡
このあたり1丁(約百米)四方にわたって源平時代の武将・新宮十郎行家の屋敷があったと伝えられている。
現在、遺跡らしいものは見い出せないが、江戸時代初期の『新宮古図』に記されている。
行家は別の名を源義盛といい、源為義の十男で新宮の神官・鈴木重忠の娘(熊野別当の娘との説もあり)との間に生まれたといわれている。
保元・平治の乱で兄弟を早く失ったが、ただ一人生き残った。
兄・義朝の子である源頼朝や義経、義賢の子・木曽義仲の叔父にあたる。
また、丹鶴姫(鳥居禅尼):たんかくひめ(とりいのぜんに):は行家の実姉であり、紀宝町鮒田の地で生まれたといわれている弁慶も義経をとおして行家との関わりが深い。
行家は新宮に居住し、平家追討の令旨を諸国の源氏に伝え、蜂起を促したことで有名である。
源平の合戦が続く中、頼朝や義仲とともに戦ったり、平家打倒に大きな役割を果たし、多くの人物と関わった珍しい武将である。
平家滅亡後は頼朝と対立する義経と行動をともにしていたが文治2年(1186)5月、和泉国で捕えられ最期をとげた。
行家の姉・丹鶴姫については色々な情報がありますが、下記の系図は『和歌山 地方史研究 第四八号』を参考して作成しました。
解説板に書かれている丹鶴姫之碑についてはこちら↓
ここから北へ徒歩約25分です。
丹鶴城公園内 | 源行家の姉・丹鶴姫(鳥居禅尼)が建立した東仙寺があった場所 丹鶴姫之碑 >> |
丹鶴姫 |
さらに丹鶴姫之碑から西へ20分ほど歩くと平重盛お手植えの梛が聳える「熊野速玉大社」です。
新宮市 | 歴代の上皇が参拝。また平重盛お手植えの梛とその実で作った御守りなど注目どころが多数。 熊野速玉大社 >> |
平重盛 鳥羽上皇 待賢門院 後白河上皇 他 |