大阪市東住吉区にある見性寺(けんしょうじ)。
平重盛の寄進によって復興、また、法然上人が「月かげ」の歌を詠まれたのがこの見性寺と伝わっています。
※法然上人…浄土宗の開祖。熊谷直実や平重盛の孫・源智などが弟子入りし、また、壇ノ浦合戦後に出家を許されなかった平重衡に授戒した人物。死後に送られた称号は円光大師。
②近鉄電車「大阪阿部野橋」駅もしくはJR「天王寺」駅徒歩25分
ホームページからメール送信が可能です:http://www.eonet.ne.jp/~kenshoji/
寺伝では、光明皇后が天平7年(735)に設けた施薬院を、聖武天皇が勅して伽藍を整え、天平8年(736)に行基菩薩を開基として成立、「無生山見性寺」の号を賜ったという。以後、天皇の庇護により繁栄するが、桓武天皇(即位781~806)の仏寺建立制限以降、衰微する。
平治年中(1159~1160)には平重盛(1138~1179)の寄進により復興。大伽藍を誇った。
そして法然上人が行基菩薩の遺徳を偲び、四天王寺参詣の際、見性寺に止宿され、生駒山から出る月をながめて「月かげ」の歌を詠まれたのが、ここ、見性寺である。
寺伝の、以上のような事柄が、歴史的事実として認められるかといえば、甚だ心許ないが、少なくとも江戸時代、見性寺が法然上人の霊跡として浄土宗信徒に受容されていたことは認められるであろう。
本堂には、真ん中にご本尊の阿弥陀如来像、左側に円光大師月影の御影、右側に阿弥陀如来立像が納められています。
拝観した円光大師月影の御影は絵が得意な先代のご住職が模写されたものだとうかがいました。
文化13年(1816)5月に刊行された名村愚仙の『円光大師御遺跡四十八所口称一行巡拝記』(以下『巡拝記』)には、別紙のように記述され見性寺は法然上人の足跡として、宗歌「月かげ」を詠まれた場所として、その当時から参拝されていたのである。
『巡拝記』に記載される宝物と、現存の寺宝が同一のものかどうかも、明らかではないが、本尊の右側の阿弥陀如来立像は、その高さが『巡拝記』の記述と一致する。
また、「円光大師月影の御影」は「月かげ」の歌を法然上人みずからの御手で記された御影であることが『巡拝記』に述べられているが、その体裁を保つ掛軸が現存している。但し、見性寺は明治16年(1883)に全焼しているので、現存の寺宝は明治27年の再建の時に複製された可能性が高い。
門前には「月影円光大師旧跡見性寺」の石碑があり、門を見上げるとだんじりの初代の獅噛み(しかみ)が掲げられています。この地区はだんじりも有名だそうです。
観光寺院ではないため、拝観については事前にご連絡下さいとのことです。
法事などでいらっしゃらない場合もあるそうです。
見性寺さんのホームページよりメール問い合わせが可能です。
http://www.eonet.ne.jp/~kenshoji/
質問にも詳しく答えていただき、ありがとうございました。
住宅街にあるお寺で、境内の大きな木が地域を見守っているようでした。
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