平家に仕え、度々平家物語にその活躍が描かれる妹尾兼康(せのおかねやす、もしくは、せおかねやす。表記は瀬尾兼康なども有り)。
2014年3月下旬に建替えられ、墓石が新しくなったころの写真です。
※鯉山小学校東隣
妹尾太郎兼康公(1126~1183)はこのあたり板倉郷の豪族でした。
高梁川の湛井:たたい:から水を引き、今も使われている。十二郷用水路を改修した人です。
平家物語に平清盛の信頼を受け平家の侍大将として寿永2年10月12日、木曽義仲の軍勢と笹迫:ささがせ:や板倉城で戦い、討ち死にしたとあり、その後家臣の陶山道勝:すやまみちかつ:は屍を城跡に埋めて供養のため寺を建てました。
それが道勝寺で今の鯉山小学校です。
大まかにまとめると…
「俱梨迦羅落」の段
妹尾兼康は寿永2年5月の俱利伽羅峠合戦の時に木曽義仲軍の倉光次郎成澄により生捕りにされる。
「瀬尾最期」の段
寿永2年閏10月1日の水島合戦で平家は勝利、敗北を知った木曽義仲軍が山陽道へ向かう。
木曽義仲が妹尾兼康は剛毅で評判なので失っては惜しいと斬らずに、倉光次郎成澄の弟・成氏に預けられていたがその間にも敵を討取って平家の下に帰ろうと隙をうかがっていた。
妹尾兼康は倉光次郎成氏に木曽義仲軍として戦うと油断させ、酒を飲ませて成氏とその家来を刺して亡き者にする。
到着した木曽義仲軍の今井兼平たちと戦い、主従3騎となる。
妹尾兼康の息子・宗康は太っている上に足が腫れて逃げられないと悟り、宗康の首を落としてから妹尾兼康も戦って討死。
建替えから約一ヶ月後。妹尾兼康の墓と供養塔??なのか二基並んでいます。
まだまだ工事に使用したと思われるものが置いてありました。
瀬尾太郎兼康公(1126~1183)は備中妹尾の豪族で平氏の家人として数多くの武功をたて、その令名は天下に聞こえた武将であったが農業にも深く意をそそぎ領内においては新田を開発し、寿永元年(1182)には十二箇郷用水の取入口である湛井堰(総社市湛井)を開設するとともに、用水路の整備をしたとされている。
これにより用水流域の十二箇郷六十八ヶ村(現・三市二村)の人々は殆ど干ばつを知らず、その恩恵を享受してきた。
今年開堰800年にあたり兼康公の徳を称えて、道勝寺墓地にこの碑を建立するものである。
2014年3月23日にお参りに行ったときはなんと工事中……(;・∀・)
数日後に完成するということでした。
普通なら見ることの出来ない工事中の兼康の墓が見れたと思えば無駄足ではなかったと前向きにとらえて……結局約一ヶ月後に改めてお参りに行ったのがこのページで紹介している写真です。
ピカピカ✨
JR吉備津駅から徒歩7分ほど、鯉山小学校の隣です。
駅前には標識もあり、お参りも比較的しやすと思います。