平経俊は平経正や敦盛の兄弟で、父は経盛。
平家物語覚一本によると一ノ谷合戦で、いとこの清房、清貞と3人同じところで討たれたとされています。
(平清貞は清盛公の養子、実父は中原師元。平家物語の注釈より)
国道2号線沿いの西出町 鎮守稲荷の一角に平経俊の墓があります。


鎮守稲荷神社(平経俊塚)
鎮守稲荷神社の創建は定かでありませんが、高田屋嘉兵衛が海上交通の安全を祈り奉納の石灯籠があることから寛政年間(1789~1801)には鎮座していたと思われます。
境内の一角に清盛の弟で経盛の第二子「経俊」の塚が祀られています。
「福原びんかがみ」では平経俊塚は佐比江の堤にあり、印に松ありとあるので、佐比江の埋め立ての頃に、この境内に移築されたものと思われます。


平家物語通りに清房、清貞も同じところで討たれたとすると、もしかするとこの2人もここに弔われているのかもしれないと想像してしまいます。
一ノ谷合戦では平家は10代の若い世代が多数討たれています

下記は2012年5月。ほぼ変化なしです。

平経俊公の由来
若狭守経俊は平清盛の甥で一の谷の合戦に華と散った平の敦盛の兄である。
湊川の合戦で鵯越の守備についていたが戦利あらず長田の森を経て西出の浜へと落ちのびてきたところを源の範頼の郎党・名和太郎に追いせまられ勇ましくも組打ちとなり当地で落命した。
時に寿永3年2月御歳わずか18歳であった。
明治になり太陽暦になったので以来3月7日を命日として御霊祭をとり行う。
古来とくに子供の守護神(夜なきの神様)として信仰されている。

2012年の写真。内容はほぼ同じです。

駒札に書かれている御霊会は地元の方を中心に近くの七宮神社の宮司さんがいらっしゃって、毎年3月7日の18時から執り行われるそうです。
七宮神社さんが、鎮守稲荷神社を兼務されているので、鎮守稲荷神社の御朱印は七宮神社さんでいただけます。

経ヶ島築造のために切り崩した塩槌山に祀られていた大己貴命:おおなむちのみこと:を怒らし、築造がはかどらないため清盛公が「南無七大明神」の神号を奉ったとされるのが七宮神社です。
ちなみ大己貴命が塩槌山に祀られていることを調べたのが阿波民部重能(田口成良)です。

■七宮神社は徒歩6分ほどの距離です