奥州藤原氏・三代目の秀衡の名が付いた桜。
地元の方の話しでは現在5代目だそうです(このページの写真は2022年4月9日撮影)
まずは現地に設置されている伝承です。
奥州の藤原秀衡夫妻が熊野参りをした際、滝尻の岩屋で出産し、その子を残してここ野中まで来て、杖にしていた桜の木を地につきさし、子の無事を願ったとされ、その木が成長したのが秀衡桜だといわれている。
明治の中ごろまでは継桜王子の社前にあり、古くから名木として知られていた。
天仁2年(1109)の藤原宗忠の日記(中右記:ちゅうゆうき:)に、道の左辺にあるツギザクラの樹は、本はヒノキで誠に希なものだと記されていてい、その桜が秀衡伝説に結びついたものとみられる。
中辺路町観光協会ホームページによるとこの時に産まれた子が後の藤原忠衡だそうです↓
http://www.aikis.or.jp/~nakahech/sightseeing/hidehira/index.html
藤原忠衡は奥州藤原氏は三代目の秀衡の三男とされています。
秀衡は、鞍馬寺を抜け出した十代の源義経を匿い源頼朝挙兵に駆け付けようとする義経を見送りました。それから6年以上経ち、源頼朝から追われる身となった源義経が再び秀衡を頼り奥州に戻っていました。
頼朝は強大な力を持つ奥州藤原氏を攻める機会をうかがっている最中に、高齢の秀衡が病気により亡くなりました。そして秀衡は義経を総大将とするよう息子たちに遺言しており、父の遺言を守ろうとしたのが忠衡。
四代目を継いだ次男・藤原泰衡は遺言には従わず、義経を討ち取り忠衡も誅殺してしまいました。
秀衡桜の向かいに側にも説明や記念印が用意されています。
「秀衡桜」はその名からも、奥州「平泉」(岩手県)に栄えた藤原秀衡公にちなむ桜であります。
平泉は12世紀、奥州藤原氏により約100年間に亘り黄金文化が花開いた所で、みちのく(東北)の政治と文化の中心であった地であります。
初代 清衡公は国宝指定第一号金色堂を有する「中尊寺」を、二代基衡公は日本有数の浄土庭園である「毛越寺」を、三代 秀衡公は宇治の平等院を模した「無量光院」を造営しました。(いずれも特別史跡)
特にも秀衡公は鎮守府将軍と陸奥守に任ぜられた平安末期を代表する為政者でありました。
また平泉は、悲運の武将「源義経」と「武蔵坊弁慶」の終焉の地として、そして時代は下り俳聖「松尾芭蕉」が「奥の細道」紀行で訪れた場所としてもしられる地であります。
「秀衡桜」が今後も熊野古道の花篝りとして、多くの方に愛でられ続けることを願ってやまみません。
平泉町観光協会
↓紀伊民報AGARA2022年3月16日の記事に秀衡桜の苗木を平泉町に贈ったことが取り上げられています
https://www.agara.co.jp/article/186411
秀衡桜押印所。紙は持参する必要があります。
桜は高い場所にあり、花は望遠で撮影しました。
快晴で良い日和でした。
根本には倒木が。3代目以前の秀衡桜??
三代目の桜の時に設置されたのでしょう。現在は5代目。
右列は「奥州秀衡」左列は読み取れません。
東へ10数メートルのところに公衆トイレも設置されています。
熊野古道を歩いていると思われる方が利用したり、近くでは地元の方が立ち話をされているような場所ですが、熊が出たようです。
秀衡桜へはまず民宿つぎ桜を目指します。
2軒隣には郵便ポストが。
その数メートル先に駐車場があり、ここから徒歩でしか通れない道を歩きます(道の写真取り忘れ)
秀衡桜の南西にあり、バス停にもなっている野中の清水。
古くから熊野路を歩く人が喉を潤した名水だそうです。
昭和60年に環境庁の名水百選にえらばれたと書かれています。
水汲み場があります。
『運行日:水曜・金曜』
もし時間が合えば、紀伊田辺駅から龍神バスでなかへち美術館で下車。そこで乗り換えてこの野中の清水までバスでくることができればかなり歩く距離は減ります。
野中の清水と民宿の中間ほどに咲いていました。
その向かいのカーブミラーには秀衡桜方面を示す矢印が。
野中の一方杉バス停付近。本数の少ないバス待ちの間も桜楽しめました。